第一部|星の名前が、記憶の扉を開く〜群青の小窓から始まった、星と歌の物語〜
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雲の切れ間に開いた、小さな群青の窓。
そこから顔をのぞかせる星を見つけるたび、
私は思わず身を乗り出した。
「あっ、見えた!」
東の低いところに、ひときわ強い光。
その少し上には、
やわらかな光を放つもう一つの星。
二つを結び、
さらにその先へ視線を伸ばしてみる。
けれど、白とも灰色ともつかない雲は、
じっとしているようで、実は動きが速い。
見つけたばかりの星を、
あっという間に隠してしまう。
まるで、星たちの登場する順番を
決めているかのように。
あの明るい星は、いったい何だろう。
いつも朝一番か二番目に見つける星だろうか。
そんな疑問から、
私の頭の中に、
いくつもの星の名前が浮かび始めた。
オリオン座。
そして、冬の大三角。
プロキシオンは、
たしかオリオンの肩だったかしら。
そう思っていたら、どうやら違うらしい。
オリオンの肩で輝くのは、ベテルギウス。
プロキシオンは、こいぬ座の星。
シリウスは、おおいぬ座の星。
この三つで冬の大三角ができる。
そして、神話の空では、
狩人オリオンに二匹の犬が
寄り添っているという。
あらまあ。
一つ名前を知っただけなのに、
もう頭の中では、
狩人と犬たちが夜空を駆け始めている。
なんとも愉快な星空ではないか。
私は昔、星座早見盤を見ながら
星の名前を覚えるのが苦手だった。
星座の名前。
一等星の名前。
ひたすら繰り返して覚える。
そんな暗唱が、どうにも好きになれなかった。
ただ唱えて覚えるだけでは、
星はいつまでも遠い存在だったのだろう。
なのに、狩人と二匹の犬の姿を
思い浮かべた途端、
三つの星が急に身近になった。
覚えようとするより、
出逢ってしまう方が、ずっと楽しい。
そんなことを考えていたら、
今度は歌が聞こえてきた。
中島みゆきの『地上の星』
カラオケで何度も歌った、大好きな一曲。
一度は100点を取ったことまである。
崖の上のジュピター。
水底のシリウス。
街角のヴィーナス。
空にあるはずの名前が、
歌の中では地上のあちこちに置かれている。
そういえば、すばるって何だったかしら。
調べてみれば、
おうし座にあるプレアデス星団。
一つの星ではなく、
いくつもの星の集まりだという。
そこでまた、
谷村新司の『昴』が胸によみがえる。
そして、THE ALFEEの
『星空のディスタンス』
こちらには、カシオペヤ座。
星座を習ったときには
覚えられなかった名前が、
歌となると次から次へと出てくるのだから、
我ながらおかしい。
しかも、それぞれの歌には、
その歌とともに過ごした時間や、
その頃の自分の思いまで重なっている。
不思議なものだ。
星を魅つめていたはずなのに、
いつの間にか心の中では、
懐かしい旋律が流れ始めている。
そして、カシオペヤ。
今度は天空の女王様だという。
五つの星が描くWの形は、
北極星を探す手がかりにもなるらしい。
北極星。
そう、ポラリス。
その名前が浮かんだ瞬間、
今度はずっと昔の教室へと心が飛んだ。
初めて出逢った異国の言葉。
「This is Japan」
「This is a pen」
一つずつ言葉を覚えていくことが、
楽しくて仕方のなかった頃。
そして、英語の教科書に載っていた
北斗七星の物語。
「Long, long ago…」
病気の母親のために、
水を探しに出かけた小さな少女。
そのひしゃくが、
やがて夜空の七つの星になる。
確か、そんな物語だった。
英語のスピーチのために、
一生懸命覚えた記憶がある。
細かな英文はもう曖昧なのに、
物語の輪郭だけは、
不思議なほどはっきり残っている。
なぜだろう。
思えば、ただ暗記した星の名前よりも、
物語と一緒に覚えた北斗七星の方が、
ずっと深く心に住み着いていた。
歌も同じなのかもしれない。
メロディーに乗せた星の名は、
長い年月を経ても、
ふとした瞬間に口をついて出てくる。
そして、そこに新しい知識が重なると、
昔から知っていた歌まで、
少し違う響きを帯び始める。
知っているつもりだったものに、
もう一度、新しく出逢う。
これもまた、私の大好きな発見なのだろう。
そしてポラリスという一つの名前は、
さらに別の懐かしい景色まで連れてきた。
ある夏の日。
布の端切れや小さな家具を並べ、
夢中になって作った寝台特急。
その列車につけた名前も、
確か「ポラリス号」だった。
ああ、そうだった。
そんなことまで覚えていたのか。
忘れていたと思っていた記憶が、
一つの星の名前から、
まるで糸を手繰り寄せるように
よみがえってくる。
一つの言葉が、別の言葉を呼ぶ。
一つの記憶が、別の記憶を呼ぶ。
そして、その記憶の先には、
また別の時間を生きていた自分がいる。
なんだか、
遠い昔へと旅をしているような
気分になってきた。
ふと空を見上げた。
雲は相変わらず厚い。
群青の窓も、
いつしかすべて閉じてしまった。
天空劇場の第一幕は終わったまま。
第二幕の始まる気配もない。
けれど、どうだろう。
星たちが姿を隠してからというもの、
私の心の中では、
次から次へと新しい星が輝き始めている。
星の名前を覚えた朝ではなかった。
星の名前から、
忘れていた自分の時間に
出逢い直した朝だった。
そして、思った。
星座早見盤の上では、
星と星を結べば星座になる。
では、心の中に散らばる
記憶の星々を結んでみたら、
いったい何が生まれるのだろう。
もしかすると、
そこにはまだ自分でも知らない
世界が広がっているのかもしれない。
さて、この先、
記憶は私をどこへ連れていくのだろう。
天空の幕は閉じたまま。
けれど、私の心の中では、
もう一つの旅が静かに動き始めていた。