あわい草子|薔薇色の光に、女神は目覚める〜観音の静寂、女神の微笑み〜
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つれづれなるままに、まち暮らし、
スマホに向かひて、
心にうつりゆくよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば——。
私はいつも、あわいをさまよっている。
一体の仏像に、心を奪われた。
そこにいらしたのは、片膝を立て、
もう片方の足をゆったりと垂らし、
どこか遠くを見つめるような、
穏やかな表情の仏様だった。
豪華な冠を戴き、薄い衣をまとい、
静かに腰を下ろしている。
その姿には、
長い歳月を超えてなお失われることのない、
不思議な気品が漂っていた。
正面から眺め、横へ回り、
そして後ろ姿まで魅つめてしまった。
衣の柔らかな流れ。
肩から背中へと続く美しい曲線。
まるで、今にも静かに立ち上がり、
こちらへ歩み寄ってきそうな佇まい。
ふと、思った。
この仏像が、ひとりの女性だったなら。
そして、
その女性が遠いギリシャ神話の世界に
生きる女神だったなら。
どんなに美しいだろう。
私の想像の中で、
仏像は少しずつ姿を変えていった。
豪華な冠は、黄金色の月桂冠へ。
重厚な衣は、風をはらんで揺れる、
柔らかな薄衣へ。
しなやかな腕を伸ばし、
優雅に片膝を立て、静かに腰を下ろす。
髪には、そよ風が戯れる。
そして、どこからともなく、
薔薇色の光が差し込んできた。
淡い桃色から、深い紅色へ。
幾重にも重なる光が、
女神の肩を、頬を、
そして柔らかな衣を優しく染めてゆく。
それは、神々しい光というよりも、
どこか温かな、人の心に似た光だった。
なぜだろう。
その女神を魅つめているうちに、
私の胸の奥に、
ある日のひとときがよみがえってきた。
大切な人と過ごした、何げない時間。
特別な言葉を交わしていたわけではない。
ただ、隣に並び、腕を組み、
手をつないでいた。
指先から伝わる、優しいぬくもり。
ほんの少し身体を寄せると、
腕と腕が触れ合い、肩と肩が近づく。
そして、ふとした拍子に胸元がそっと触れる。
そのたびに、心臓が小さく跳ねた。
ドキン。
まるで、誰にも聞こえない小さな鈴が、
胸の奥で鳴ったようだった。
なんでもないことなのに。
ただ、身体が触れただけなのに。
どうして、こんなにも心が弾むのだろう。
時折、ふたりの視線が重なる。
目が合った瞬間、
思わず微笑んでしまう。
すると、向こうも微笑み返してくれる。
その笑顔が嬉しくて、また胸が高鳴る。
言葉にしなくても伝わってくる、
柔らかな親しさ。
手をつないでいるのに、
もっと近くにいたくなる。
すぐ隣にいるのに、
もう一度、その瞳を見たくなる。
そんな自分の心が、少し可笑しくもあり、
愛おしくもあった。
きっと、
私の顔はずっとほころんでいたのだろう。
なんだか、少女の頃に戻ったような。
いいえ、少し違う。
今の私だからこそ感じられる、
優しくて、深いときめきなのかもしれない。
恋心とは、不思議なものだ。
目には見えない。
手で触れることもできない。
けれど、その人が隣にいるだけで、
景色の色が変わってしまう。
いつもの風が、少し甘く感じられる。
何げない時間が、
かけがえのないものになる。
そして、自分の中に、
まだこんなにも柔らかな感情が
息づいていたのかと、驚かされる。
若い頃の恋は、
燃え上がる炎のようだったかもしれない。
けれど、歳月を重ねて知る恋には、
また別の美しさがある。
相手のぬくもりを感じること。
同じ景色を眺めること。
何も語らず、ただ寄り添っていること。
そんなささやかな時間の中に、
言葉では表せない幸福が宿っている。
そして、時には不意に胸が高鳴り、
自分でも驚くほど
無邪気な笑顔になってしまう。
恋する心には、
年齢というものがないのかもしれない。
再び、薔薇色の光に包まれた女神を魅つめる。
その表情は穏やかで、どこか艶やかだった。
月桂冠を戴いた女神は、
誰かに愛されるために
美しく装っているのではない。
自らの心に芽生えた感情を、
静かに慈しんでいるように魅えた。
人を想う喜び。
触れ合うぬくもり。
魅つめ合うときの、あの小さな胸の高鳴り。
そんな目には見えないものが、
内側から女神を美しく輝かせている。
美しさとは、いったい何なのだろう。
整った容姿だろうか。
優雅な衣だろうか。
それとも、身につけた宝石の輝きだろうか。
もちろん、それらも美しい。
私は今でも、美しく装うことが好きだ。
けれど、それだけではない。
さまざまな経験を重ね、
喜びも悲しみも知り、
それでもなお、
新しいものに心を動かし、
人を愛おしいと思えること。
そして、思いがけない瞬間に、
胸をときめかせること。
そんな心の瑞々しさこそ、
女性を内側から輝かせる
光なのではないだろうか。
東洋の仏像が教えてくれた、静寂の美。
西洋の女神がまとった、優雅な美。
そして、今日、私自身の心に芽生えた、
淡い恋のときめき。
一見すると異なる三つの美が、
いつの間にかひとつにつながっていた。
静寂の中にも、情熱は宿る。
気品の中にも、色香は漂う。
そして、穏やかな微笑みの奥にも、
誰にも知られない小さな鼓動がある。
女神は、遠い神話の世界にだけ
住んでいるのではない。
きっと、誰の心にも、
ひとりの女神が眠っている。
その女神が目覚めるのは、
特別な奇跡が起きたときでは
ないのかもしれない。
誰かと微笑みを交わしたとき。
ぬくもりにそっと触れたとき。
そして、心がふわりと
ほどけるような優しさに包まれたとき。
そんな、ささやかな出逢いの中で、
女神は静かに目を覚ます。
薔薇色の光は、
今日もやさしく降りそそいでいる。
あの女神の微笑みは、
ひとりの恋のためだけに咲くものではなく、
人と人とが出逢うたびに生まれる、
喜びとときめきの光なのかもしれない。
これからも私は、
あなたとの出逢いの中に
喜びとときめきを見いだし、
ともに奏でる満ち足りた二人の世界に、
そっとため息を漏らしながら、
あなたの優しさに包まれるたび、
心に小さな薔薇を咲かせてゆきたい。
その薔薇はひとつずつ、
静かに、
けれど確かに増えてゆき、
いつの日か、この世にひとつしかない、
輝く花束になっているのだろう。
— Morimura