我が心、すでに無なり。
されど、天地の旋律は満ちている。
天地が奏でる旋律に乗りながら、
また新しい私となり、
今日一日の物語を始める。
「風さん、今日も一日よろしくね。
まずは心の奥へと続く階段を目指しましょう。
そして、そこへ着くまでに
私が心へ取り込んだ驚きや感動を、
少しだけ一緒にのぞいてみようね」
そんな気持ちで、
パン屋さんを目指して歩き始めた。
今日はいつもより少し早く着きそうだ。
もしかしたら、
まだパンが全部出来上がっていなくて、
品数は少ないかもしれない。
でも、昨日食べたスモークハムと野菜の
フレンチトースト、美味しかったな。
昨日は急いでいて、あまり味わえなかった。
今日もう一度買ってもいいよね。
ミニパンはお気に入りの三種類。
一個ずつにするか、二個ずつにするか。
でも、からあげクンの麻辣湯味も、
もう一度食べてみたい。
あれは朝、お腹が空いたときに
食べるのがいいような気がする。
昨日の日記に書いたことを思い出した。
パン屋さんの名前を日本語にすれば、
「フランスの生活」
フランスのマダムの、
こなれたおしゃれについて
書かれた本のように、
フランスの女性を見習って
「こなれたパン」にしてみようかな。
……こなれたパンって、なんだろう。
やっぱり昨日の
スモークハムと野菜のフレンチトースト?
それとも、フォカッチャの上に
彩り鮮やかな季節の野菜を並べ、
チーズでまとめたようなパン?
うーん。
なまつば、ごっくん。
ついさっきまで、
無になった心へ最初に流れ込んできたのは、
天地が奏でる幽玄な旋律だった。
それなのに、
そのすぐあとには食欲のことを考えている。
その落差があまりにも可笑しくて、
自分で笑ってしまった。
風さんも、
私の周りをくるくる回りながら
笑っているようだった。
街を歩きながら、最近よく思うことがある。
オフィス街なのに、
街路樹がとても美しい。
きちんと手入れされた緑が街の中に続き、
まるで小さなオアシスのようだ。
毎朝ここを歩いて出勤する人たちも、
この緑を目の前にすれば、
ほんの少し心が和らぐのではないだろうか。
そう思うと、
ちょっぴり羨ましい朝の出勤だなと思った。
横断歩道が見えてきた。
信号が変わる前に渡りたい。
「風さん、急ぐわよ」ダッシュ。
まだ疲れを知らず走れる自分が、
なんだか不思議だった。
心が洗われたから、
身体まで軽くなったのだろうか。
ふと、あの有名な言葉を思い出す。
健全なる身体に、健全なる精神を。
心が先なのか。
身体が先なのか。
卵が先か、鶏が先かみたい。
でも私は思う。
どちらでもいいじゃないの。
身体が健やかなら、心も少し元気になる。
心が健やかなら、
身体も驚くほど軽やかに動く。
そのとき、そのときで、
どちらかがもう一方の
手を引いてあげればいい。
見上げれば、イチョウの葉が風に揺れていた。
同じように剪定され、
同じくらいの高さに揃えられた木々が、
ずらりと並んでイチョウ並木を形作っている。
ここにも昨日見つけたような
「息抜きの窓」はあるのだろうか。
通勤する人たちが、
ぱらぱらとオフィス街へ吸い込まれていく。
なぜか、みんな少し下を向いて
歩いているように見えた。
その中で、
一人だけ空を見上げながら歩いている私。
ちょっと浮いているかもしれない。
でも、それもいい。
最後の横断歩道を走り抜けると、
心臓がドキドキしていた。
けれど、その鼓動には
もう一つのドキドキも重なっていた。
この先で、
私はどんな素敵な世界を
心へ取り込めるのだろう。
やがて、「心の奥へと続く階段」に着いた。
エスカレーターには乗らない。
一段。
また一段。
転ばないように、ゆっくり降りていく。
階段の方が、
なんとなく秘密の場所へ
近づいていくような気がするから。
すると、ピアノの音が聞こえてきた。
音の方を見ると、
通勤途中らしい中年の男性が
ピアノを弾いていた。
やがて演奏を終えると、
新聞だけを片手に、さっと立ち去っていった。
もし会社へ向かう途中の
朝の演奏だったのなら、
なんて素敵な朝を過ごしている人なのだろう。
曲は歌謡曲ではない。
おそらくクラシック。
雰囲気はモーツァルトのようにも
感じたけれど、
曲名までは思い出せなかった。
楽譜はない。
きっと、何度も何度も
弾きこなしてきた曲なのだろう。
さっと座り、さっと弾き、さっと去っていく。
格好いいな。
私は小さい頃からピアノを習っていた。
楽器の中でも、
やっぱりピアノの音が好きだ。
オーケストラの中でピアノの独奏が始まると、
今でもうっとりしてしまう。
弾くことも好きだった。
でも身体を動かすことも大好きだった私は、
いつの間にかピアノを
中途半端なところでやめてしまった。
練習も行き当たりばったり。
お稽古へ行っては、
先生に怒られていたっけ。
あの頃、もう少し頑張っていたら。
今朝出逢ったあの人のように、
通勤途中にさっとピアノを弾いて、
さっと立ち去れるくらいになっていたのかな。
そんな昔の自分まで、懐かしく思い出した。
今朝、私の心へ流れ込んできたもの。
天地が奏でる幽玄な旋律。
ピアノの旋律。
懐かしい風景を描くような、
爽やかでリズミカルな
クラシックのメロディー。
そしてパンを眺めながら思い描いた、
フランスの朝の食卓。
目で見て、
耳で聴いて、
心で感じて。
またいくつものものを、
自分の中へ溶け込ませた。
そして、地上へ。
外へ出ると、風さんが待っていた。
「あら、風さん。
中まで一緒についてきてくれたと思ったら、
ここで待っていてくれたのね」
風さんが尋ねる。
――どうだった?
心の中は。
「また、心に響くものに出逢えたわ。
そして私の中に、いっぱい溶けていった」
――よかったじゃないの。
「そう。だから今から、
その感動を文章にまとめようと思っているの。
ミニパンを食べながらね」――いいよ。
「じゃあ風さん、ちょっとだけ待っていてね」
天地の旋律から始まった朝。
街のざわめきも、
イチョウの葉音も、
走ったあとの鼓動も、
地下から聞こえてきたピアノも。
気づけばすべてが、
今日という一日の旋律になっていた。
旋律の続き✨
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