20時からご予約をいただいていたから、
少し余裕を持って外に出た。
さっきよりも空は深く暮れ、
もうすっかり夜の色になっていた。
待ちかねていたように、
風さんがやってきた。
「そろそろ、あの人に逢いに行くのね」
「そうよ。なんでわかるの?」
「だって前に話してくれたじゃない。
オキニトークで
ずっとお話ししていた人がいるって。
なかなか日程が合わなかったけれど、
今日やっと逢えるって、
嬉しそうにしていたもの」
そうだった。
なんだか逢えることが嬉しくて、
あなたが好きだと言っていた
真っ赤な口紅を持ってきた。
私にはきっと似合わないと思っていた色。
それでも思い切って買って、持って行った。
濡れた髪が好きだと聞いていたから、
髪も少しウェットに整えた。
そんなことをしている自分が、
なんだか可愛らしく思えた。
その一方で、ほんの少し不安もあった。
思っていた人と違った――
そうがっかりされたらどうしよう。
期待と不安、そしてドキドキとときめく心。
その全部を抱えて、
20時、思い切ってドアをノックした。
返事がない。
もう一度ノックしても、
やっぱり返事がない。
そっとドアを開け、
「こんばんは」と中を覗くと、
驚いた顔をしたあなたがいた。
そして次の瞬間、
その表情がぱっと笑顔に変わった。
「ああ、やっと逢えた」
両手を広げて迎えてくれた
あなたの胸へ飛び込んだとき、
心の中にあった小さな不安は、
どこかへ消えていた。
今日という一日は、
もしかしたら、
この瞬間へ向かって
流れていたのかもしれない。
赤い口紅を意識して、
髪を整えて、
美意識の高い女性が好きだという
あなたの言葉を思い出して。
本当はフェイシャルエステにも
行きたかったけれど、
ちょっとドジって叶わなかった。
それでも、
私なりに精一杯あなたに逢う準備をしてきた。
そして、その私を
あなたがとても喜んでくれた。
初めて逢えた喜びを抱きしめ合いながら、
あなたの胸の鼓動を感じた。
笑顔と優しさに包まれながら、
「逢えてよかった」という思いが
静かに満ちていった。
最初の乾杯は、ビールで。
その缶に書かれていた言葉に、
私は一目で心を奪われた。
「時の誘惑」そして、
「その余韻に浸る贅沢」
なんて素敵な言葉なのだろう。
そのときはただ、
ビールに添えられた言葉に
惹かれただけだった。
けれど、グラスを重ねながら
いろいろな話をしているうちに、
その言葉が少しずつ、
私たちの時間そのものに重なり始めた。
あなたがいつも
私の日記を読んでくれていること。
そこに書いたことを覚えていてくれること。
そして今日、
私に逢う前に、
お蕎麦まで食べに行ってくれていたこと。
そんな一つひとつが嬉しかった。
初めて逢ったはずなのに、
不思議なくらい自然体でいられた。
あなたの素敵な空気の中へ、
私がゆっくり溶け込んでいく。
そしてベッドでは、
言葉の代わりに互いの温もりを感じた。
優しく触れ、触れられ、
心だけでなく身体まで
ほどけていくようだった。
幸せだ――。
心の中に、そんな言葉が静かに浮かんだ。
初めて逢った人との時間が、
こんなにも
深く心を満たしてくれるなんて
思っていなかった。
逢う前から言葉を交わし、
少しずつ気持ちを
つないできたからなのだろう。
会話をすること。
相手を知ろうとすること。
そして、心がつながること。
それは、とても素敵なことなのだと思った。
二人の時間のエピローグも、
もう一度ビールで乾杯した。
ホテルを出ると雨が降っていた。
途中まであなたと並んで雨の街を歩きながら、
まだ話し足りない言葉を交わし、
次の再会を約束した。
あなたと別れると、
風さんが私のところへ戻ってきた。
「赤い口紅、よく似合うわよ」
そう?実は私も鏡を見ながら、
意外と似合っているかもしれない、
なんて思っていたの。
それから風さんとは、
もう何も話さなかった。
言葉にしなくても、
今の私の心を風さんならきっとわかっている。
雨に濡れた道を、
風さんと一緒に待機所へ戻った。
最初の乾杯で見つけた、あの言葉。
「時の誘惑」
あのとき惹かれたその言葉の意味を、
私は今、少しだけ知ったような気がする。
素敵な時に誘惑され、
その中へ身を委ねること。
そして、その時が過ぎ去ったあともなお、
心に残るものを静かに味わうこと。
今夜、私が手にしているもの。
それはきっと――その余韻に浸る贅沢。
時の誘惑✨
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