4:51。
最後の荷物を片付け、
お部屋を出る時間になった。

こんな朝早くに掃除機をかけたら、
少しうるさいかなと思った。
それでも、やっぱり最後は
きれいにして飛び立ちたい。

掃除機を弱めにかけ、
もう処分しようと思っていたタオルで
床を拭いた。
このタオルも、
11日間の横浜ステイをずっと
一緒に過ごしてきたもの。
そう思うと少し愛着が湧いたけれど、
最後にもうひと仕事してもらおう。

床をきれいに拭き上げ、
役目を終えたタオルにありがとうを告げた。

そろそろ時間。
きれいになったお部屋を、
もう一度ゆっくり見渡す。
よし、大丈夫。
そして、そっと三分休符を置いた。
「またね」心の中でそう呟いて、
ドアを閉めた。

エレベーターを降り、
2階から1階へ続く階段を下りる。
すると正面から、
風がふわっと吹き上げてきた。

あっ、風さん。
待っていてくれたんだ。
ぱっと視界が開けたように、
心まで明るくなった。

「風さん、おはよう。一緒に帰りましょう」
ふわふわ、ふわふわ。
風さんは私の身体の周りをくるくる回り、
今度は荷物の周りまで嬉しそうに回っている。

まだ辺りは暗い。
それでも私の目には、あの木が見えた。
本来の名前を取り戻した木。
今ではもう迷うことなく、
自分の名前を知っているかのように
堂々と立ち、
空へ向かって枝を伸ばしている。
かすかな風に葉を揺らしながら、
私を送り出してくれているようだった。
ちょっぴり寂しい。
でも、なんだか嬉しい。

お部屋にも、
あの木にも、
この街にも。
そっと三分休符を添えて、駅へ向かう。

……その前に。
お店へ鍵を返さなくちゃ。
5:00までに行かないと閉まってしまう。
急いでお店へ向かい、
11日間お世話になった挨拶をした。
そして、カウンターに鍵を置く。

カチャッ。
小さな金属音だった。
なのに、その瞬間。
身体の周りを固めていた何かが、
同じ音を立てて外れたような気がした。
肩から、すうっと力が抜ける。
手も、
足も、
心までも、自由に伸ばせる。

意識が、はるか遠くへ飛んでいく。
なんだろう、この感覚。
お店に出ているからといって、
何かに縛られていたわけではない。
それでも心のどこかでは、
小さな籠の中にいたのかもしれない。

そして今、カチャッ。
あの音を合図に、籠の扉が開いた。
外へ出る。
風さんが待っていた。
「お疲れさま。
じゃあ駅へ行きましょう。
早く帰りましょう」

すると、あちらからも、こちらからも、
いくつもの風が私のところへ集まってきた。 「ありがとう、みんな」
風に吹かれていると、
寝不足で頭は重たいはずなのに、
心はどんどん軽くなっていった。

やっぱり、
あの「カチャッ」という音だったんだ。
あれが、私の心を切り替えるスイッチだった。
私は今、籠から外へ出て、
羽を大きく広げようとしている。
これから、私の帰る町へ。

帰る道への扉が開くまで、
風さんと外で待ちながら、空を見上げた。
その空に、家族の温かな笑顔が見えた。
見慣れた風景も見えた。
今すぐ手を伸ばせば、
つかめそうな気さえした。

そして――私の帰る道への扉が開く。
それは、こちら側と向こう側をつなぐ、
光の扉のようだった。
その向こうには、
家族の笑顔と、
見慣れた風景と、
私の日常が待っている。

あの「カチャッ」という音で、
私はきっと、
またひとつ殻を脱いだのだ。

昨日、心に響いた風景や出逢いを
一色ずつ織り込んで完成させた、
あの鮮やかな心色の帯。
それはもう、
背中に結ぶものではなく、
私の胸の奥に、そっと巻かれている。

11日間で拾った風景も、
心に響いた旋律も、
出逢った言葉も、
感動という色も、
すべてその帯の中にある。
だから私は、何も置いていかない。
全部を胸にまとい、
それでも身軽になって、飛び立つ。

昨日までの私を脱ぎ捨てるのではない。
昨日までのすべてを、
新しい私の中へ溶かし込みながら、前へ進む。

さあ。
今から、私の新しい一日が始まる。
そして、新しい人生の物語が始まる。

風さんと一緒に、
この光の扉をくぐろう。
今日の一歩を踏み出す。
新しいステージへ向かうために。