和歌山へ向かう特急に乗りながら、
今日のお昼は何を食べようかと考えていた。
鰻重もいい。
外は香ばしく、中はふっくら。
想像するだけでお腹が鳴りそうになる。
でも、なぜだろう。
今日は無性に、蕎麦が食べたい。
横浜で朝そば時間を手放してから、
11日間、一度も蕎麦を食べなかった。
久しぶりだからこそ、飾らない蕎麦がいい。
調べていて心を惹かれたのが、
和歌山市にある「野田や」の
生粉打ちせいろだった。
そば粉だけで打った十割。
天ぷらもいらない。
豪華な具材もいらない。
ただ、蕎麦。
その潔さに惹かれた。
すると突然、ずっと昔の記憶が蘇ってきた。
滋賀県長浜の「そば八」
そこで一度だけ、
特別なお蕎麦をいただいたことがある。
確か、普段のメニューには載っていなかった。
お得意様にしか出さない、
店主独自の蕎麦だったと記憶している。
わんこそばのように、
小さな椀が一つずつ運ばれてきた。
「これは、そのまま食べてください」
最初は、何もつけない。
蕎麦だけ。
次の椀。「これは、この水につけて」
水?そんな食べ方で美味しいのかしら。
半信半疑で水にくぐらせ、口へ運んだ。
……美味しい。
次は塩。
ほんの少し塩を添えて食べる。
これも、美味しい。
むしろ私は、その食べ方がとても好きだった。
そして一椀ごとに少しずつ味が加わり、
最後には、
私たちが普段知っている
蕎麦つゆの世界へ近づいていった。
不思議だった。
味を足すほど美味しくなるとは限らない。
何もつけない蕎麦にも、
水だけの蕎麦にも、
塩だけの蕎麦にも、
それぞれに、ちゃんと味があった。
いや。むしろ何も加えないからこそ、
蕎麦が自分自身の味を
語っていたのかもしれない。
その記憶が、
今日になって急に心の奥から顔を出した。
そういえば、日本酒にも似た話がある。
米を磨き、外側を削り、
雑味につながる成分を減らしながら
造られる吟醸酒。
磨けば磨くほど、
香りや味わいは研ぎ澄まされていく。
もちろん大吟醸が単純に
「水に近づく」わけではない。
けれど私は、
余分なものを削ぎ落とした先にある、
澄んだ味わいに惹かれる。
そして、
その究極にあるものを想像すると、水。
そんな言葉が浮かんでくる。
人が生きるためにも、水は欠かせない。
そして、塩。
汗をかけば、
身体は水分だけでなく塩分も失っていく。
そう考えると、
水と塩は、
人間がずっと昔から身体の奥で知っている、
とても根源的な味なのかもしれない。
だから私は、塩が好きなのだろうか。
ステーキだって、
わさびやいろいろなソースがあるけれど、
私は塩で食べるのが一番好き。
肉の味が消えない。
塩は何か別の味に変えてしまうのではなく、
そこにある味を、そっと立ち上がらせる。
蕎麦も同じなのかもしれない。
何もつけない。
水で食べる。
ほんの少し塩を添える。
それだけで、
蕎麦が持っていた素朴な香りや甘みが、
静かに立ち上がってくる。
ああ。
だから私は、
野田やの生粉打ちせいろに惹かれたんだ。
昨日、横浜で何度も心の中に置いた言葉が、
また蘇ってきた。
無一物中無尽蔵。
何もない。
だから、何も感じないのではない。
何もないところにこそ、無限のものがある。
昨日は、それを風景の中で感じた。
心を無にして歩けば、
風の音が聞こえた。
木々の囁きが聞こえた。
何気なく通り過ぎていた景色に、
いくつもの色を見つけた。
今日は、それを舌で感じてみたい。
何も足さない蕎麦。
そこにあるのは、そば粉と水。
そして、必要ならほんの少しの塩。
その向こうに、
どれだけ豊かな味が隠れているのだろう。
今、向かっているのは和歌山。
本当の目的は、月に一度の仕事の打ち合わせ。
だったはずなのに。
いつの間にか私の心は、
別の小さな旅を始めていた。
和歌山への出張が、そば旅へと変わっていく。
和歌山には海がある。
潮の香りがある。
海から吹いてくる風がある。
潮だって、海の水と塩。
なんだか今日のすべてが、
一つにつながっていく。
長浜で出逢った、何もつけない蕎麦。
水。
塩。
今日これから出逢う、十割の生粉打ちせいろ。
そして和歌山の海から届く、潮の香り。
もしかしたら今日、
私は蕎麦を食べに行くのではなく、
「無の中にある味」を
探しに行くのかもしれない。
何も飾らない。
何も足さない。
ただ、そこにあるものを、
そのまま受け取ってみる。
まずは一口。
何もつけずに。
そして、もし塩があったなら、
ほんのひとつまみ。
目を閉じて、
ゆっくり噛んでみよう。
そのとき私の心には、
どんな香りが、
どんな景色が、広がるのだろう。
和歌山への出張は、
いつの間にか、
私の小さな、そば旅になっていた。
無の味を求めて、そば旅へ✨
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