エントランスのドアが開いた。
外へ一歩踏み出すと、
朝の風がさーっと私を包んだ。
今日は風さんが、
朝一番の鳥の声まで連れてきてくれた。
まるで12日ぶりに帰ってきた
私のためだけに用意された、
朝のBGMのようだった。
本当は4:00に起きるつもりだった。
昨日から「明日は絶対に歩く」
と張り切っていたのに、
アラームを止めて二度寝。
目を覚ませば5:00を過ぎていた。
ああ、やっちゃった。
けれど、不思議と焦らなかった。
遅くなったなら短く歩けばいい。
1時間でもいい。
30分でもいい。
それでも私は歩きたかった。
12日ぶりのこの町の風景に、
「ただいま」と言いたかった。
昨日は本当に眠たかった。
それなのに電車の中でも眠らず、
私はずっとスマホに向かっていた。
寝られなかったのではない。
眠りたい。
でも、それ以上にやりたいことがあった。
魅たものを伝えたい。
感じたものを伝えたい。
心が動いた、その瞬間を伝えたい。
私はどうやら、
出来事を「書いている」のではないらしい。
言葉でもう一度、再現したいのだ。
写真を一枚差し出して
「これよ」と伝えるのではなく、
私の言葉を受け取った人の心の中に、
その人だけの風景を描いてほしい。
同じ文章を読んでも、
きっと少しずつ違う空が広がる。
それでいい。
それが、
人が言葉を受け取るということなのだと思う。
そんなことを考えながら歩いていると、
いつもの第一ポイントへ着いた。
あるアパートの一階。
一室の玄関の前。
ここは、まだ若かった頃、
ほんの少しだけ暮らした場所だ。
夜中の12時に突然
「焼肉を食べに行こうか」と
出かけたりもした。
若かった。
そしてなぜか、
今も鮮明に覚えているものがある。
目玉焼き。
まだ若かった頃、
遅く帰ると卵を二つ使って
目玉焼きを作ってもらった。
当時の私は白身があまり好きではなかった。
だから、炒めたハムを
下に敷いて焼いてもらっていた。
ハムの味で白身の味気なさをごまかす、
私の大好きなハムエッグ。
たったそれだけのことなのに、
長い時間が流れた今になって、
その一皿の温度がとてもよくわかる。
何気ない日常の中にあった優しさ。
言葉にしなくても伝わっていた温もり。
人の記憶に最後まで残るものは、
案外こういう小さな風景なのかもしれない。
私はその場所の前で、
ほんの少し立ち止まった。
そして心の中で、
静かに「ただいま」と言った。
今朝は、本当はここへ来ることを
少しためらっていた。
私自身が、いろいろな重たいものを
抱えていたからだ。
新しいパソコンのこと。
これから始まること。
本当に私にできるのだろうかという不安。
けれど歩きながら、
それらを一つずつ言葉にしていった。
すると不思議なことに、
あれほど重かったものが、
少しずつ姿を変え始めた。
できなければ、その時考えればいい。
忘れたなら、またやればいい。
今日全部できなくてもいい。
そう気づいたら、心がすーっと軽くなった。
気がつけば風さんがいた。
戻ってきたのではない。
きっと、ずっとそばにいた。
私が自分の心の声を吐き出すことに夢中で、
気づかなかっただけ。
空を見上げた。
雲ひとつない青。
限りなく透明に近い空の色。
この色は、どんな絵具でも、
クレヨンでも、色鉛筆でも、
きっとそのままには描けない。
けれど、だから私は言葉にしたい。
私の言葉を受け取った誰かの心に、
その人だけの「限りなく透明に近い空」
が広がればいい。
やがて、私のパワースポットへ続く
細い一本道へ入った。
まっすぐではない。
緩やかなカーブを、
いくつも、
いくつも曲がっていく。
鳥の声。
木々の緑。
家々で始まる人々の暮らし。
遠くを走る車の音。
そして、静かに並ぶお墓。
かつては少し怖かったその場所も、
今は違って見える。
ここにも、かつて懸命に生きた人たちがいる。
命から命へ。
心から心へ。
見えないバトンが、ずっと渡され続けている。
そして私も、
その長い流れの中を生きている一人なのだ。
曲がる。
また曲がる。
先はまだ見えない。
なんだか人生みたいだと思った。
けれど、次のカーブまで歩けば、
また次の景色が現れる。
そしてようやく、
その先に光が見えた。
私はその光へ向かって、
一歩、一歩、一歩。
息を切らしながら歩いた。
遠い未来なんて見えなくてもいい。
1時間後だって未来。
2時間後だって未来。
今日一日の終わりだって、
今の私にはまだ見ぬ未来なのだから。
やがて曲がりくねった細い道を抜けた。
目の前いっぱいに、朝の光が広がった。
鳥が鳴いている。
風が吹いている。
木々が輝いている。
空はどこまでも青い。
さっきまで心いっぱいに抱えていた
重たいものが、
いつの間にかずいぶん軽くなっていた。
そして思った。
今朝、私はただウォーキングを
していたのではなかったのかもしれない。
重たいものを抱えて歩き始め、
一つずつ言葉にして、
一つずつ手放して、
曲がりくねった道の先で光に出逢った。
これはきっと、
私の――小さな千日開放行。
さあ、今日もここから歩いていこう。
誰かのためでもなく。
私自身の命を、私自身の色で輝かせながら。
私の小さな千日回峰行✨
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