一日の始まりは、まだ夜の中だった。

2時過ぎに目が覚めた。
朝と呼ぶにはまだ早い時刻。
そして、不意に感じた地震の揺れ。
少し驚きながら始まった今日だった。

昼寝をすることもできず、
眠さはずっと
身体のどこかについてきたけれど、
それさえも今となっては、
この長い11日間の最後の日に添えられた、
小さなプロローグだったような気がする。

今日は、帰る日。
11日間過ごした場所を離れ、
家族の待つ場所へ帰る日だった。

振り返れば、この11日間、
私はずいぶんたくさんのものを拾った。

まだ街が眠っている朝に歩き始め、
空を見上げ、
雲を追い、
木々に足を止め、
鳥の声に耳を澄ませ、
水面に揺れる光を眺めた。
雨にも逢った。
突然降り出す雨に驚いた日もあれば、
細かな雨粒に濡れることさえ
心地よく感じた日もあった。

そして、いつも風さんがいた。
そよそよと隣を歩く日もあれば、
ぶわっと追いかけてくる日もあった。
立ち止まった私の背中を押したり、
何も言わずそばにいてくれたり。
私は毎日のように風さんと話しながら、
目の前に現れる風景をひとつ、
またひとつと
心のサンクチュアリーへ運んでいった。

いつの間にか、時間さえ手放していた。
何時までにここへ行かなければ。
何キロ歩かなければ。
そんなものを少しずつ脱いでいったら、
それまで見過ごしていたものまで
見えるようになった。

一枚の葉っぱに立ち止まり、
一本の木の正体を知りたくなり、
雲の形から物語が生まれ、
何気ない朝の光ひとつで心が満たされた。

戻っているように見える道でさえ、
歩いている限り、
それは未来へ向かう道なのだと思えた。
人ともたくさん逢った。

初めましての笑顔。
久しぶりの笑顔。
ずっと逢いたかった人との時間。
言葉を交わし、
笑い、
時には懐かしさに胸をいっぱいにしながら、
人と人が逢うことの不思議と、
その温かさを何度も感じた。

心が揺れた日もあった。
亡き母の面影を追った夜もあった。

嬉しさも、
切なさも、
驚きも、
懐かしさも。

どれかひとつだけでは、
この11日間の色にはならない。

朝陽の色。
空の青。
雨の銀色。
木々の緑。
出逢いの色。
再会の色。

いくつもの色が重なり合って、
私の中にひとつの大きな景色をつくっていった。

そして今日。
そのすべてを抱えて、私は帰った。
本当なら、一日前に帰るはずだった。
けれど、自分の予定で一日延ばしてしまった。

それをなかなか言い出せないまま、
ぎりぎりになって家族へ送ったメッセージ。 「仕事が片付かないから、一日遅くなる」
返ってきたのは、
「わかった」ただ、それだけだった。

寂しいとも言わない。
悲しいとも言わない。
どうして、と責めることもしない。
けれど、その短い言葉の行間にあるものが、
私にはなんとなくわかるような気がした。

だから、帰ったら
一緒に食事をしようと思った。
少しおしゃれをして、
少し特別な場所へ。

家族はブルーのレースの
エレガントなワンピース。
私はシックなグレーのワンピース。
大きなガラス窓の向こうには、
緑の山々と、
長い時を重ねてきた景色が広がっていた。

古いものと新しいもの。
和と洋。
静かで上質な空間の中で、
それらが美しく溶け合っていた。

一皿、また一皿。
美しく仕立てられた料理が
運ばれてくるたびに、家族の表情が輝いた。
「きれい」
「これは何だろう」
「おいしいね」

一皿ごとに、会話が増えていった。
11日間を埋めようとしたわけではない。
けれど、料理が運ばれてくるたびに
交わす何気ない言葉が、
離れていた時間の隙間へ、
ひとつずつ温かなものを
置いていくようだった。

ワインはない。
けれど、それでいい。
今夜のマリアージュは、
料理とワインではなく、
美しい一皿と家族との
会話だったのかもしれない。

ふと、ガラスの向こうを見る。
風さん。今日はそこにいるのね。
この11日間、あんなに私のそばにいたのに、
今夜はガラスの向こうからこちらを見ている。
なんだか少し、羨ましそう。

ごめんね、風さん。
今夜だけは、そこから見ていて。
今日は、家族との時間だから。

やがて空は、ゆっくりと色を変えていった。
赤銅色。
なんて美しい色なのだろう。

この11日間、私はいくつもの色を探し、
拾い、心のサンクチュアリーへ運んできた。

けれど最後に待っていた色は、
どこか遠くまで歩かなければ
見つからない色ではなかった。
帰ってきた場所にあった。

待っていてくれる人がいること。
何も言わず、
「わかった」
と受け入れてくれること。
同じテーブルを囲み、
同じ料理を味わい、
「おいしいね」と笑えること。
家族のぬくもり。
家族の優しさ。
お互いを思いやる心。

そんな、ごく当たり前に
見えるものの中にあった。

11日間。
私はずいぶん遠くまで歩いたような気がする。
距離のことではない。
見て、
感じて、
立ち止まり、
また歩いて。

心がずいぶん遠くまで旅をした。
だからこそ、
帰ってきて初めて見える色が
あったのだと思う。

朝3時。まだ夜の中から始まった
今日という一日は、
やがて赤銅色の夕暮れへたどり着き、
今、静かな夜の中へ溶けていこうとしている。

そして、この一日が終わると同時に、
11日間続いた私の物語も、
そろそろ最後のページを迎える。

空も。
風も。
雨も。
木々も。
鳥も。
水も。出逢った人たちも。
再び逢えた人たちも。
そして、待っていてくれた家族も。
ひとつとして同じ色ではなかった。

だから、どれかひとつを選んで
終わりにする必要などないのかもしれない。
全部抱えて帰ればいい。
この11日間に拾った色を、
ひとつも置いていかずに。

心のサンクチュアリーいっぱいに抱えて。
そして、そのすべての色の最後に、
今日、新しい色がひとつ加わった。
遠くまで歩いたからこそ、
もう一度その温かさに
気づくことのできた色。
探しに行かなくても、
ずっとそこにあった色。
私が帰れば、
静かに迎えてくれる色。

今宵、11日間の物語の最後のページに、
私はその色をそっと置いて、
この一冊を閉じようと思う。
家族という、還る色。