ポタリ。
傘3号の曇り硝子を伝った雫が、
濡れた路面へ落ちた。
小さな輪が生まれた。
その輪はゆっくりと広がり、
やがて見えなくなった。
また、ポタリ。
今度はその隣に、
新しい波紋が生まれる。
雨に濡れた路面は、
薄い膜を一枚まとったようにつややかだった。
水たまりになる少し手前の、静かな水鏡。
そこには、
傘を差して歩く私の姿が
ぼんやりと映っている。
朝日のような眩しい輝きではない。
もっと静かで、
深いところへ染み込んでいくような光だった。
私はしばらく、足元ばかり見て歩いた。
せっかく汚れを落として乾かした靴も、
また雨に濡れている。
まあ、いいか。
濡れたら、また乾かせばいい。
顔を上げると、
傘3号には新しい雫が生まれていた。
歩くたびに傘を持つ手が揺れる。
ポロリ。
ポロリ。
雫が曇り硝子の上を伝っていく。
その一粒をじっと魅ていると、
不思議なことに、
その向こうにひとつの風景が浮かんだ。
朝の横浜を歩きながら、
心に響いた風景を拾い、
言葉に乗せていた私。
別の雫には、仕事に夢中になっている私。
また別の雫には、お店へ出勤し、
これから開くドアの向こうにいる
「あなた」を心待ちにしている私。
初めてお逢いしたあなた。
偶然出逢ったあなた。
もう一度、逢いに来てくださったあなた。
言葉を交わすたび、
笑顔を重ねるたび、
少しずつ心の距離が近づいていった。
さらに雫を辿る。
横浜へ初めてやって来た頃の私がいた。
成人式の晴れ着姿の私もいた。
もっと遠くへ行けば、
曇り硝子に指を滑らせて
無邪気に落書きをしている小さな私までいる。
遠い過去。
少し遠い過去。
ちょっと遠い過去。
少し前の過去。
そして——ほんの少し前まで、
この道を歩いていた私。
私が一歩前へ進むたび、
「今」は「過去」になっていく。
そうか。
だから、雫はなくならないんだ。
歩けば歩くほど、
私の中には新しい雫が増えていく。
楽しかったことも、
切なかったことも、
心を揺らした風景も、
人との出逢いも、
その一粒一粒に閉じ込められている。
やがて雫は、ポタリと落ちる。
心の水面へ。
そこから波紋が広がる。
ひとつの記憶から生まれた波紋が、
別の記憶の波紋に触れる。
重なり、震えながら、
さらに奥へと伝わっていく。
ふと思った。
これが、「心に響く」
ということなのかもしれない。
ただ覚えているだけではない。
心のどこかへ落ちた一滴が波紋を起こし、
その震えが自分でも気づかなかった
深いところまで届く。
そして、その雫は消えてしまうのではなく、
少しずつ心へ染み込んでいく。
私を育てる水になる。
明日の私をつくる養分になる。
そう思ったとき、
久しぶりに手にした傘3号が、
急に愛おしくなった。
新品のように透き通っていなくてよかった。
曇っていたから、私はその向こうを覗いた。
覗いたから、雫を見つけた。
雫を魅つめたから、
こんなにもたくさんの私に逢えた。
傘3号さん、ありがとう。
あなたの曇り硝子は、
今朝だけ開いた記憶への扉
だったのかもしれない。
傘の表面を、また一粒の雫が伝った。
ポタリ。
心の水面に、新しい波紋が生まれる。
その輪の中には、
もう遠い昔の私だけではなかった。
誰かを知りたいと思った私。
誰かに寄り添いたいと思った私。
そして、誰かと心がつながったと感じた私。
いくつもの心模様が重なり合い、
大きなひとつの波紋になっていく。
その波紋を魅つめながら、
私はまだ少しだけ、記憶の中を歩いていた。
けれど——傘の向こうから、
海の風が吹いてきた。
まるで、「そろそろ、今日へ戻っておいで」と
呼んでいるようだった。
雫、記憶をほどく✨
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