海から吹いてきた風に呼ばれるように、
私は目の前にかざしていた傘3号を、
ゆっくりと真上へ持ち上げた。
その瞬間だった。
ずっと私の視界を覆っていた曇り硝子が、
すっと消えた。
目の前が、開いた。
もちろん空はまだ一面の薄いグレー。
雨雲に覆われ、遠くの景色も少し霞んでいる。
それなのに、
不思議なくらい世界が透き通って魅えた。
まるで、長い夢から目覚めたばかりの、
まっさらな心で「今」を魅ているようだった。
海から風さんが、バーッと吹いてきた。
髪を揺らし、頬を撫で、
眠りの残っていた私の頭の中まで
一気に通り抜けていく。
「風さん、おはよう。
やっと私、起きたみたい」
体は5時に起きていた。
でも心はずっと、
昨日と今日の境目を歩いていたのだろう。
傘3号の曇り硝子を通って遠い過去へ旅をし、
雫の中でいくつもの自分に逢い、
その一粒一粒が心へ落ちて波紋になった。
長い眠りだった。
いや、眠っていたというより、
心だけは24時間
ずっと起きていたのかもしれない。
でも、もう大丈夫。
私は心のサンクチュアリーの前に立った。
周りを見渡す。
いつもなら走っている人や
歩いている人の姿があるのに、
今日は誰もいない。
雨の中に、私ひとり。
だから私は、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
そして大空へ向かって、思い切り叫んだ。
「おはよう!」
ひとつは、私の心へ。
長い昨日を歩き続け、
ようやくここまでたどり着いた私の心へ。
もう一度。
「おはよう!」今度は海へ向かって。
この海の向こうへ届けたい。
心に浮かんだ大切なあなたへ。
そして、もう一度。
「おはよう!」
遠く離れた家族へ。
離れていても、
心のどこかではいつもつながっている。
その温もりへ向かって。
3つの「おはよう」が、
雨の空へ放たれていった。
それでも私は、もう一度叫びたくなった。
「おはよう!」
最後のひとつは——今日の私へ。
声を出した途端、
胸の奥にあった
もう一つの扉が開いたような気がした。
心を閉ざしていたわけではない。
これまでも私は、
いくつもの出逢いに心を開き、
たくさんの「あなた」と言葉を交わしてきた。
だから今朝開いたのは、
もっと奥にあった扉。
そこで私は、ひとつのことに気づいた。
心がつながるということは、
長い時間をかけることではない。
初めてお逢いした人とも、
一瞬にしてつながることがある。
相手のことを知りたいと思う。
その心に少しでも寄り添いたいと思う。
そして、
自分のことも知ってもらいたいと思う。
二つの心が同じ場所を求めたとき、
緩んでいた糸が、ぴん。と張る。
その瞬間、目の前にいる人の表情が変わる。
同じ顔を魅ているはずなのに、
その奥にあるものが、
ふっと表情に滲み出てくる。
もっと知りたい。
何を考えているのだろう。
何を感じているのだろう。
今、何を望んでいるのだろう。
そう思うほど、私はあなたへ近づきたくなる。
言葉の距離が縮まり、
心の距離が縮まり、
触れ合う温もりまでが
同じところへ向かっていく。
それがきっと、心がつながるということ。
そして再び逢えたなら、
その糸はもう少し強くなる。
また逢えたなら、さらに深く結ばれる。
いつしかあなたの心模様と
私の心模様が重なり、
二つの波紋がひとつになって、
二人だけの世界を描き始める。
昨日までのいくつもの出逢いが、
そんなことを
私に教えてくれたのかもしれない。
今日も、
この先にどんな出逢いが待っているのかは
わからない。
でも、お逢いするあなたに寄り添いたい。
あなたの心模様を少しでも知りたい。
そして私の心模様も、
飾らず素直に魅てもらいたい。
そんな一つ一つの出逢いが私の心を輝かせ、
その光がもしかすると、
表情や肌にまで滲み出ているのかもしれない。
空はまだ雨模様。
それでも、
私の心には晴れやかな空が広がっていた。
足元の靴は、また濡れてしまった。
でも、それもいい。
濡れたら、また乾かせばいい。
今日やらなければならない
仕事もたくさんある。
眠気だって残っている。
でも、それもひとつずつ。
ひとつずつ、片づけていこう。
私は傘3号を堂々と真上に掲げ、歩き始めた。
「傘3号さん、ありがとう」
あなたが曇っていたから、
私はこんなにもたくさんの
心模様を魅ることができた。
そして今、
あなたはもう私の視界を曇らせてはいない。
真上で雨を受け止めながら、
今日を歩く私を守ってくれている。
風さんも、もう隣にいる。
さあ、今日という一日へ。
雨降りの空の下、
晴れやかな心で、
私はまた新しい物語を紡ぎ始める。
一歩進めば、
その「今」もまた私の大切な過去になり、
新しい一滴となって心へ落ちていく。
だから今日も、たくさんの雫を集めよう。
心に響き、心を潤し、
いつか誰かの心へと届く——
私だけの、彩り豊かな心模様を。
傘上がり、今日ひらく✨
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