5時20分。
雨がポツポツ、ポツポツと降っていた。
風も冷たい。

昨夜眠ったのは3時半を回ってからだった。
5時のアラームで目を覚ましたものの、
昨日やり残したことを慌てて片付け、
LINEに返信し、
身支度を整えて外へ出た。
けれど、体は今日を歩き始めているのに、
心はまだ昨日と今日の境目を
うろうろしていた。

「おはようございます」と書けばいいのか、
「こんばんは」なのか。
届いている「今日」という言葉が
昨日の今日なのか、本当の今日なのか。
そんなことさえ一瞬わからなくなるほど、
頭の中にはまだ昨日が残っていた。

そして今日は、久しぶりの傘3号。
昨日、傘1号とお別れすることになった。
残念だけれど、
あなたのおかげで見つけた
「心遊び」は残していきたい。

そんなことがなければ、
傘2号もあるのだから、
3号の出番はまだ
ずっと先だったかもしれない。

傘3号を開く。
取っ手には、
ほかの人の傘と間違えないようにつけた、
水色と白の少し大きめのチェックのシュシュ。
長い時間を一緒に歩いてきたから、
その色も少しくすんでいる。

「久しぶり」なんだか、
しばらく逢っていなかった友人と
再会したような気持ちになった。

ポツ、ポツ、ポツ。

雨粒が傘に当たり、
大きなもの、
小さなもの、
いくつもの水玉模様を作っていく。

けれど傘3号は、
もう新品の透明な傘ではない。
目の前にかざしてみると、
街が少しぼやけた。
乳白色のベールというより、曇り硝子。

いつもの街も、
いつもの道も、
その向こうに置いて眺めると、
まだ夢の中にいるようだった。

そのとき、遠い記憶がふっと戻ってきた。
曇り硝子を見ると、
どうしても指で落書きをしたくなった幼い頃。
冷たい硝子に指の腹を当てて、
キュッ、キュッ、キュッ。
ニコちゃんを描いた。
ハートを描いた。
星を描いた。
名前もない、へなへなの模様も描いた。

キャンバスがいっぱいになれば隣の硝子へ。
曇りが消れてしまえば、
ハーハーと息を吹きかけ、
また自分で新しいキャンバスを作った。

あの頃の私は、
曇っていることを
残念だなんて思っていなかった。
曇っているから、描けたのだ。

透明な傘に絵を描いて
「心遊び」と名づけた私。
でも、もしかしたら心遊びは、
先日生まれたものでは
なかったのかもしれない。
ずっとずっと昔から、私の中にいた。

傘3号を伝っていた雨粒が、
ひとつ、またひとつと大きくなった。
そして私が一歩進むたび、さらり。
さらり。
曇り硝子の上を滑り、足元へ落ちていく。

その一粒を目で追った。
ポタリ。
濡れた路面に、小さな波紋が生まれた。
もう一粒。
ポタリ。
また新しい波紋が広がった。

気がつけば私は、
前ではなく、
傘を、雫を、足元ばかり見ながら歩いていた。

そして、曇り硝子を伝う
一粒の雫の向こうに——昔の私がいた。
まだ私は、今日へ戻ってきていなかった。
どうやら傘3号は、
雨を避けるためではなく、
今朝の私を、
記憶のずっと奥へ連れていくために
現れたらしい。

雨音だけが、ポツポツ、ポツポツ。
まだ眠りの残る街と、
昨日と今日の間を歩く私を、
静かに包んでいた。