長い夜を閉じたとき、
時計はもう朝を指していた。

仕事を終えたのは3時半。

そこからメイクを落とし、

昨日の最後のドア、
十五夜の月、
森村の店仕舞い、
そして一日の振り返り。

ひとつずつ物語を閉じていたら、
いつの間にか5時を回っていた。

途中、何度かうとうとしたような気もする。

寝たのか、寝ていないのか。
自分でもよくわからない。

それでも最後の一篇を書き終えたとき、
ようやく昨日という
長い一日を閉じることが
できたような気がした。

外へ出る。

雨が、ぽつり、ぽつり。
歩くことしか考えていなかったから、
傘は持っていない。

あら。

そう思ったけれど、
引き返すほどでもない。

風が強かった。

冷たい風が、
さあっと身体の横を抜けていく。

強いのに、嫌ではない。
むしろ、昨日から
身体や心の中に残っていたものを、
ひとつずつさらっていってくれるようだった。

眠たい。
少し寒い。
それなのに、どこか爽やかだった。

そして、外へ出ると、
最近いちばん最初にすること。

私の小さな空を見上げた。

まだ日の出前。
晴れた朝なら、
これから少しずつ色を帯びていくはずの空が、
今日は薄いグレーに包まれている。

けれど、そのグレーの下の方から、
白い領域が
少しずつ広がっているように見えた。

昨日、私の心は満ちていた。
人の温もりに満ち、
言葉に満ち、
十五夜の月の光に満ちていた。

そして今朝。
満ちたものがなくなっていくのではなく、
ひとつずつ静かに白へ還っていく。
そんなふうに魅えた。

白へ還る。

何もなかった自分に戻るということではない。

昨日受け取ったものを
ちゃんと胸の奥へしまい、
また今日という一日を迎えるために、
心の余白をひらいていくこと。
空を見ながら、そんなことを思った。

私の小さな空は、不思議だ。
毎朝同じ場所にあるのに、毎朝違う。

そして最近は、
空そのものを見ているというより、
そこに映る自分の心を
魅ているような気がする。

もしかしたら、この小さな空は、
私の心を映す鏡なのかもしれない。

そのとき。

カーカー、カーカー。

一羽ではない。

何羽ものカラスが一斉に鳴き始めた。

朝の大合唱。

静かに白へ還っていた心の世界へ、
いきなり現実の朝が飛び込んできた。
思わず笑ってしまう。

そうよね。
朝は、静謐なだけじゃない。
鳥も鳴くし、
風も吹くし、
雨だって降る。

伊勢佐木モールを抜けながら、
また空を見上げた。
雨のぽつぽつの間隔が、
さっきより狭くなっている気がする。

少し心配になって天気予報を見ると、
やっぱり雨マーク。

傘、買わないといけないかな。
そう思った次の瞬間、
「5分後に雨がやむでしょう」
そんな表示が目に入った。

じゃあ、その言葉を信じてみよう。

あと5分。

雨がやむ方に賭けてみる。

「風さん、おはよう。」
そう声をかけた。

昨日は、
月の光に満たされるような気持ちのまま、
風さんのことにも気づかず
帰ってしまったかもしれない。
ごめんね。
きっと、ずっと一緒にいてくれたのよね。

「そうだよ。知らんぷりするんだから」
そんな少し拗ねた声が
聞こえたような気がして、また笑った。

昨日は早く帰って日記を書かなきゃ、
日記を書かなきゃって、
そればかり考えていたの。ごめんね。

じゃあ今日も、一緒に歩こうね。
「うん、そうだね」

濡れた路面を歩く。
HOKAが、
ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ。
ギュッ、ギュッ、ギュッ、ギュッ。
小さな音を立てる。

その音が、
まるで今朝の私の歩調を
決めてくれているようだった。

一歩。
また一歩。
昨日の満ちた思いが、
足音に合わせるように、
少しずつ白へ還っていく。

静かに溶けていく日もあるのだろう。
でも今朝は、
ギュッ、ギュッ。
ひとつずつ。
ひとつずつ。
歩くたびに心が整っていく。

白へ還るということにも、
きっといろんな還り方がある。

すうっと溶ける朝。
風にさらわれる朝。
雨に洗われる朝。
そして今日みたいに、
足音を響かせながら白へ還っていく朝。

私はまた、小さな空を見上げた。
昨日までの色を抱えたまま、
今日という新しい一日のための余白が、
少しずつ、
少しずつ、
私の中に広がり始めていた。

満ちし夜を
風にほどいて
白へ還る
足音ひとつ
朝をひらきぬ

— Morimura