はさ気がつけば、海に着いていた。

最初は雨のことばかり
気にしていたはずなのに、
いつの間にか頭の中は、
お菓子や料理やワインのことで
いっぱいになっていた。

そんなことを考えながら歩いていたら、
風景を見ることさえ忘れて、
いつもの海まで来ていた。

今日は曇り空。

晴れた朝なら、
もうとっくに太陽が姿を見せ、
あたりをピンクゴールドに
染めている時刻だろう。

けれど今朝は、
厚い雲に覆われているのか、
太陽の姿は見えない。
その代わり、
目の前には、
白からグレー、
そして黒へと続く、
何層もの濃淡の世界が広がっていた。

まるで、
大きな水墨画を見ているようだった。
空は色を失っているのではない。
色を削ぎ落として、
残ったものだけで世界を描いている。

白。
薄墨。
灰。
黒。

そのあはひ。

色がないから寂しいのかと思えば、
不思議とそうではなかった。
むしろ、
とことん削ぎ落とされた先にある、
純粋な美しさを感じた。

色がついていないからこそ、
そこには幽玄な世界がある。

何も決められていない。

何色だとも言い切れない。

だから、
見る側の心が入り込める。

自分の記憶を重ねてもいい。
自分の思いを置いてもいい。
既成概念が薄れ、
ただそのものを、
素直に受け止めることができる。

そんな空だった。

よく見ると、
薄いグレーの雲の合間に、
白い余白がぽつりぽつりと浮かんでいる。

大きな余白。
小さな余白。
丸い余白。
細長い余白。
それぞれがまだ離れている。

けれど、
時が経てば、
きっとひとつの大きな白へ
つながっていくのだろう。

昨日から心の中に抱えていたものも、
きっと同じなのかもしれない。

すべてが一気に白へ還るのではなく、
少しずつ、少しずつ、
白い場所を増やしていく。

そんなふうに、
私の中にも今日という一日の余白が、
静かに広がっているように思えた。

水面を見る。
風にさらわれて、
いつもより大きく揺れている。

ドブン、ドブン。

打ち付ける音ではない。
水そのものが、
大きく呼吸しているような音。
こんな音を聞くことは、
なんだか珍しい。

空が心を映す鏡なら、
水面は、
自分の姿を映す鏡なのかもしれない。
そして、
この水面は、
私だけではなく、
ここに立ったいろんな人たちを、
ずっと魅つめてきたのだろう。

外国人居留地があった頃。
西洋の文化が少しずつ入り、
洋菓子や洋食の店が生まれていった頃。
街が今とは違う姿だった頃。
きっとこの水は、
そんな時代の人々の姿も見てきた。

時の流れは、
水の流れに似ている。

荒れるときもある。
大きくうねるときもある。
静かに流れるときもある。
じっと止まっているように見えるときもある。
でも、
本当はずっと動き続けている。

時代も。
人の心も。
今日という一日も。
そして、
私の人生も。
長い流れなのか、
短い流れなのか。
違うのは、
それだけなのかもしれない。

私はまた、
空を見上げた。

白から黒へ。
黒から白へ。
その濃淡が、
まるでひとつの大きな呼吸のように魅えた。

そういえば、
白と黒の組み合わせを、
私たちはよくモノトーンと呼ぶ。
改めて意味を調べると、
白、黒、グレーなどの無彩色。
あるいは、
同一色の濃淡や明暗だけで表現する世界。

そう。

まさに今、
私の目の前に広がっている空だった。

白があるから、
グレーから黒へのグラデーションが生まれる。
黒があるから、
白がより白く際立つ。
白と黒は、
相反する色ではないのかもしれない。
むしろ、
互いを引き立て合う、
対の色。

昨日思い出した、
ダリラとカントドーロのように。

それぞれが違うからこそ、
ふたつ並んだときに、
ひとつの物語になる。

モノクロ写真も、
光と影の芸術だと私は思う。

光が白。
影が黒。
そのふたつが対になって、
ひとつの世界を織りなしていく。
今朝の空も、
まさにそうだった。

よく魅ると、
そこには心の故郷ような風景があった。

小高い山々。
白い細長い空間は、
川の流れのようにも見える。
滝のように流れる雲。
雲の中に森があり、
その奥にまた空があり、
雲があり、
そして光がある。
山から煙を吐くように、
雲がふわりふわりと吹き出している。

その景色は、
私が向こうの町で見た、
山から白い霧が立ちのぼる風景にも似ていた。

場所は違う。

でも、
心が静かになったときに見える景色は、
どこかつながっているのかもしれない。

白と黒。
光と影。
余白と濃淡。
そのあはひに立つと、
世界は静かになる。

静かなのに、
何もないわけではない。
むしろ、
見えないものまで、
そこにたくさん息づいている。

色がないからこそ、
心は自由になる。
そして、
その自由な余白の中に、
今日の私は、
またひとつ新しい景色を描いていた。

白と黒のあはひ。
そこには、
何色にも染まっていない、
深い朝があった。

白黒の
あはひに宿る
朝の影
色なき空へ
心ほどける

— Morimura