私は昔から、水のある風景が好きだ。
海。
湖。
池。
川。
そして、滝壺へ激しく落ちてゆき、
白い飛沫を上げながら
荒々しく揺れる水面も好きだ。
静かな水も、荒れる水も好き。
たぶん私は、水を眺めているのではない。
その向こうにある、
長い長い時間を魅つめているのだと思う。
水面は鏡に似ている。
空を映し、
雲を映し、
木々を映す。
けれど私には、
それだけではないような気がする。
何百年、何千年という時の中で、
その場所を訪れた人たちの喜びも、
悲しみも、
恋も、
別れも、
争いさえも、
黙って魅つめてきたのではないか。
だから水辺に立つと、
時々、不思議な気持ちになる。
私が水面を魅つめているはずなのに、
いつの間にか、
水面の方から私が魅つめられている。
心の奥まで。
今日まで生きてきた時間まで。
そして水に映る自分の姿を見ながら、
私はもう一度、自分自身を魅つめ直す。
そんな時間が、好きなのだ。
だから「水鏡の小径」では、
水のそばに残された
物語を辿ってみたいと思う。
水面が魅つめてきたもの。
そして、
その水面を前にした今の私の心に映るもの。
その最初の景色として、
どうしても浮かんでくる歌がある。
茜さす
紫野行き
標野行き
野守は見ずや
君が袖振る
ー額田王。
そして、それに応えるように
大海人皇子が詠んだと伝わる歌。
紫草の
にほへる妹を
憎くあらば
人妻ゆゑに
我恋ひめやも
私は昔から、この二首が好きだった。
ほんとうに、
この二人はどんな思いで
歌を交わしたのだろう。
その答えを、
今の私たちは知ることができない。
残されたのは、
千年以上もの時を越えて届いた言葉だけ。
だからこそ、
その言葉の向こうにある心を想像したくなる。
近江の地を歩いていると、
私はいつもこの歌を思い出す。
ゆったりと時の流れる町。
水路を小舟が進み、
岸辺の草がわずかに揺れ、
空の色が水へ落ちている。
水郷を巡る舟に乗れば、
櫂が水を押すたび、
小さな波紋が生まれる。
ひとつ。
また、ひとつ。
それまで鏡のようだった水面が崩れ、
やがて何事もなかったように、
また静かになる。
そんな景色の中にいると、
いつしか今という時間から離れてしまう。
近江牛の暖簾が並ぶ今の町から、
もっと昔へ。
ずっと昔へ。
飛鳥の時代まで。
大海人皇子。
額田王。
そして天智天皇。
三人の間にどんな思いがあったのか。
後世に生きる私には、
本当のところはわからない。
けれど、あれほどまっすぐな恋の歌が残った。
人目を憚る恋だったのか。
それとも、
歌だからこそ許された戯れだったのか。
もしかすると、
私たちが想像するような物語とは
まったく違っていたのかもしれない。
それでも私は、あの二首を読むたびに思う。
人は千年以上前にも、
こんなにも誰かを恋したのだ、と。
逢いたい。
振り向いてほしい。
あなたの袖が揺れるだけで、胸が騒ぐ。
そんな思いは、今も昔もきっと変わらない。
やがて歴史は動いていく。
天智天皇が世を去り、
大友皇子と大海人皇子の間に
壬申の乱が起こる。
恋の歌を詠んでいた人々も、
いつしか国の行方を左右する
大きな歴史の流れの中へ入ってゆく。
恋もある。
争いもある。
別れもある。
権力もある。
人間というものは、いつの時代も複雑だ。
けれど、水は何も言わない。
人が愛し合っても。
憎み合っても。
国を巡って争っても。
ただ、そこにある。
風が吹けば揺れ、
雨が降れば波立ち、
夜になれば月を映し、
朝になれば空の色を受け取る。
人間にとっては人生を変えるほどの出来事も、
水にとっては長い時間の中の、
ほんの一瞬なのかもしれない。
それでも私は思う。
水は、忘れてはいないのではないか、と。
何も語らない代わりに、
すべてをその奥へ沈めている。
誰かの笑い声も。
泣き声も。
恋の歌も。
争いの叫びも。
すべてを包み込み、
奥深くへ沈めて、
そして今日も、
何事もなかったように揺れている。
だから私は、
奈良から近江へ向かう旅が
好きなのかもしれない。
観光名所をひとつずつ巡る旅ではなく、
一つの歌を携えて歩く。
一人の女性を想い、
一人の男の心を想い、
その時代に生きた人たちの足跡を辿る。
そうすると、
見慣れた景色まで違って魅えてくる。
湖も。
水路も。
岸辺の草も。
風さえも。
すべてが千年以上前から続く
物語の一部のように感じられる。
そして水辺に立ち、
静かな水面を魅つめているうちに、
ふと気づく。
私は昔の人たちを魅つめていたはずなのに、
いつの間にか、
水面から今の私が魅つめ返されている。
——あなたは、いま誰を想っていますか。
——あなたは、
どんな時間を生きていますか。
そんな声が聞こえてくるような気がする。
私は答えず、ただ水面を見る。
風がひとつ通り過ぎる。
鏡が崩れる。
そして、また静かになる。
千年以上前の恋も、
その後に起きた争いも、
今ここに立つ私の心も、
水はすべて受け止めながら、
今日も変わらず、
静かに揺れている。
これが、私の歩いてみたい、水鏡の小径。
水が魅つめてきた時間を拾いながら、
そして時には、
水に映った自分自身を魅つめながら。
これからゆっくり、歩いていこうと思う。
紫の
袖の名残りを
沈めつつ
水は千年
恋を語らず
— Morimura
水鏡の小径 |第一景 紫野の恋を、湖は魅つめていた✨
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