風さんをそばに感じながら、
私は日記を書いていた。
睡眠貯金をするのも忘れ、
若様の世界の扉を開くのも忘れ、
ただひたすら心の中で寄り道をしていた。
昨日から考えていた鰻の小径。
懐かしく、
そして今思えば少し厚かましい、
試飲と称していただいた黒龍 石田屋の
日本酒の小径。
そして、明日からにしようと
思っていたはずなのに、
今朝ふと生まれてしまった水鏡の小径。
きっかけは「淡」という字だった。
淡い海。
その字を見つめているうちに、
淡海——おうみという響きが浮かび、
そこから額田王と大海人皇子の恋の歌へ
心が飛んでいった。
そうなると、もう戻れない。
私はその世界にどっぷりと浸かり、
水面の向こうに千年以上前の恋を魅つめ、
気がつけばもう18時になろうとしていた。
現実へ戻してくれたのは、
お店から届いた
部屋番号のお知らせメールだった。
まあ。
あと10分で18時。
急いで水鏡の小径・第一景をアップして、
あなたの待つホテルへ向かわなければ。
外へ出ると、
街はもうすっかり夜の顔をしていた。
日の入りは、いつの間にか17時半頃。
少し前までは、
もう少し長く空に明るさが
残っていたはずなのに。
そんなところにも季節の移ろいを感じる。
秋へ。
秋へ。
日が短くなるほどに、
夜は少しずつ長くなってゆく。
そして私の心もまた、
久しぶりに逢える
あなたとの時間を思うほどに、
静かに深くなっていった。
恋焦がれる——。
そんな言葉を久しぶりに思い出した。
そして、最後のドアが開きました。
あなたの笑顔。
そして私を包むように魅つめる、その目。
その瞳を見た瞬間、私はふと思った。
——水鏡みたい。
ほんの少し前まで、
私は水面に魅つめ返される感覚を書いていた。
そして今、目の前で
私を魅つめているあなたの瞳にも、
同じ静けさがあった。
心の奥まで見透かされるようで、
少しどきりとする。
けれど不思議と怖くはない。
むしろ、その眼差しに触れた途端、
張っていたものがほどけていった。
「わあ、お久しぶり。嬉しい。
逢いたいたかったわ」
そう言うと、
「俺も会いたかったよ」
あなたはそう言って、
そっと私を抱き寄せた。
その腕の中で、
私はほんの少しだけ時間を手放した。
ソファに並んで座り、
逢えなかった間の話をする。
何を食べようか。
何を飲もうか。
これからどう過ごそうか。
今さら今さら。
そんなことを二人で笑いながら相談する。
でも私は、
この行き当たりばったりの時間が
嫌いではない。
むしろ、どこへ転がっていくのか
わからない夜の方が、少し心が躍る。
そして近くのスーパーへ二人で出かけた。
オードブル。
おばんざい。
ちょっとしたおつまみ。
ビール。
何気ない買い物なのに、
あなたと並んで歩くだけで、
どこか小さな旅のようだった。
部屋へ戻ると、
あなたは冷蔵庫から
一本の日本酒を取り出した。
上喜元 純米大吟醸 山田錦 30%。
あら。
私、上喜元は好きよ。
それに——
今の私も、上機嫌。
思わず笑ってしまう。
けれど、この純米大吟醸 山田錦30%は
初めてだった。
酒瓶を眺めると、
どこか白ワインを思わせるような佇まい。
そして、さらに驚いた。
あなたは少し細身のワイングラスを二つ、
ちゃんと持ってきてくださっていた。
さすが。
そんなところまで考えていたのね。
私、ワイングラスでいただく冷酒も好き。
まずはビールで乾杯。
久しぶりに逢えた夜に。
そして次は、上喜元で乾杯。
グラスを口元へ運ぶ。
ひと口。
やわらかな甘みが広がった。
30%まで磨き上げられた山田錦。
雑味をほとんど感じさせず、
澄んだ甘みだけが上品に残る。
それなのに重くない。
さらりとしている。
すうっと流れ、するりと消えてゆく。
私はまた笑った。
なんだか、このお酒。
今夜の私たちみたい。
甘い。
でも、甘さに溺れない。
華やか。
でも、騒がしくない。
二人だけの時間が静かに満ちて、
そして惜しむ間もなく流れてゆく。
上喜元。
私は今、まさしくその名の通りだった。
あなたの横で。
あなたとグラスを重ねながら。
私はどんどん上機嫌になっていった。
ほろ酔いになり、
つまみを口へ運び、
おしゃべりをして、笑う。
ふと身体を預けるように、
あなたにもたれかかる。
そして横を見る。
あなたがいる。
ただ、それだけ。
なのに不思議なくらい嬉しい。
大きな出来事なんて何もいらない。
隣に座る人の体温。
横顔。
声。
笑った時の目元。
グラスを置く小さな音。
そういうものが、
今夜はやけに愛おしかった。
カーテンを開けてみた。
けれど、月は見えなかった。
方角が違うのか。
それとも雲の向こうに隠れていたのか。
少し残念。
けれど、私はすぐに思った。
見えなくてもいい。
今夜は、心の中に月がある。
月の神秘的な光が、
窓の向こうからではなく、
私たち二人の間に
降りているような気がした。
その淡い光の中で、
私はあなたの横顔を魅つめた。
夕方、水鏡に映る千年前の恋を
想っていた私が、
夜になって、
今度は自分の隣にいる人を魅つめている。
なんだかおかしい。
そして少し、幸せだった。
あなたの優しさに包まれながら、
私は秋の夜長の夢を見ているようだった。
このまま時間がゆっくり流れればいい。
でもきっと、
楽しい時間ほど早く過ぎる。
上喜元のように。
甘く広がり、
やわらかく満ちて、
そして、すうっと流れてゆく。
ありがとう、あなた。
私、今夜はとっても上機嫌。
そう思いながら、
私はあなたの横顔を、
もう一度そっと魅つめた。
また待っていますね。
あなたと過ごした長い夜。
上機嫌な夜の余韻を胸に抱きながら、
私はまた風さんと一緒に、
夜の街を帰っていった。
月なくも
君のまなざし
灯となりて
上機嫌なる
秋の夜は更け
— Morimura
上喜元、月なき夜に✨
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