いつの間にか、馬車道へ入っていた。
伊勢佐木モールには、
こんな時間でも
ぽつぽつと明かりが灯っていた。
24時間営業の店があるからだろうか。
でも、馬車道はひっそりとしていた。
昨夜の雨に濡れた路面が、
街灯の光を受けて鈍く輝いている。
その光を見ていると、
昨夜ここを行き交った人たちの足音が、
まだ路面の奥に残っているような気がした。
キュッ、キュッ、キュッ。
私の靴HOKAが濡れた路面を踏む音に
重なるように、
いろんな時代の人々の足音が聞こえてくる。
やがてその音は、
もっと遠い昔へと流れていった。
馬車が走っていた時代。
この道を、どんな馬車が通っていたのだろう。
昨日見つけた十番館前の水飲み場。
あそこで乾いた喉を潤し、
またこの馬車道へ戻って、
牛や馬も歩き続けていたのだろうか。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
車輪の軋む音。
人の話し声。
蹄の音。
そんなものが、
今朝の静寂の中に重なって
聞こえてくるようだった。
古い建物。
新しい建物。
昔の風景。
今の街。
古きものが消えず、
新しいものが入り込み、
それでも不思議とぶつからずに
溶け合っている。
この街には、
温故知新という言葉がよく似合う。
そんなことを思いながら歩いていると、
やっと風さんが来た。
あ。
風さん。
ずっと探してたのよ。
今日は私が早すぎたのね。
まだ寝てた?
でも、だんだんいつものあなたに
戻ってきたみたい。
今、あなたの香りを感じる。
昨日は空色だったけれど、
今朝のあなたは
まだ透明に近づいている群青。
目には見えないのに、
私にはそんな色に魅えた。
その風に背中を押されるように歩いていると、
木々の間から丸い光が見えた。
一瞬、胸が高鳴った。
月?
もしかして、月が見えている?
少し駆け足になって、
木々の切れ目からその光を見上げた。
そして、思わず笑った。
月ではなかった。
アパホテルの屋外広告塔。
Aの文字が、
なぜか月のように魅えたのだった。
月を見たい、月を見たいと思っていると、
そんなものまで月に見えてしまうらしい。
不思議なものだ。
そういえば、この時期はどこへ行っても月見。
マック。
うどん屋さん。
定食屋さん。
コンビニ。
月見と名前がつけば、
そこにはたいてい卵がひとつ。
昔、月見そばや月見うどんを見て、
ただ卵が入っているだけ?と
思ったことがあった。
でも、よく見れば黄身は
確かに満月に似ている。
ふっくらと膨らんだ黄身。
淡い黄色。
濃い黄色。
オレンジがかった黄色。
月にもいろんな色がある。
以前、卵の黄身の色は値段ではなく、
鶏の餌によって変わると知った。
じゃあ、お月様の色も餌の違いなのかしら。
そんなことを考えて、また笑った。
でも、その瞬間。
お月様の餌って、何だろう。
そう思った。
きっと、地上から月を見上げる人たちの
願い。
喜び。
悲しみ。
手放したい思い。
そんな心模様なのではないだろうか。
月はそれを受け取って、
自分の中へ引き取って、
光のエネルギーに変えて、
また優しさとして、
私たちへ返してくれているのかもしれない。
月の中のウサギ。
あの悲しくて、優しい物語。
火の中へ身を投じ、
自分の命と引き換えにしてまで
誰かを助けようとしたウサギ。
その姿を、
神様は永遠に月へ残した。
だから月には、
優しさの記憶が宿っているのかもしれない。
空を見上げると、
雲の形が少しずつ変わっていた。
両手を伸ばして飛ぶ人。
その向こうから駆けてくるウサギ。
私には、そんなふうに魅えた。
もしかしたら、
月の女神なのかもしれない。
月からちょっと飛び出して
遊びに来たウサギへ、
「もう夜が明けるから、早く戻っておいで」
そう言いながら、
両手で救い上げようとしているようだった。
そう思うと、
あのウサギもただ悲しいだけではない。
きっと月の中では、
ちゃんと誰かに守られている。
そしてときどき、
窮屈になって外へ飛び出しては、
朝が来る前にまた迎えに来てもらう。
そんな物語があってもいい。
風は少しずつ強くなってきた。
空も、海も、
まだ完全には朝になっていない。
群青。
白。
薄い光。
雲。
風。
月。
ウサギ。
いろんなものが混ざり合い、
空はまるで幽玄世界の入り口のようだった。
私はその中へ、
思うがままに心を飛ばしていた。
時間を飛び越え、
馬車道の昔へ行き、
月の中へ入り、
ウサギと女神の物語を描き、
また風に乗って今へ戻ってくる。
今朝の私は、
足はこの道を歩いているのに、
心だけは何度も時代を越えていた。
そんな朝だった。
時を越え
月の兎を
追う心
群青の風
今へ連れ帰る
— Morimura
馬車道、時を渡る|月のウサギは空へ逃げた
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