朝の光に包まれながら、
私は再び歩き始めた。

夜明け前から続いていた心の旅も、
そろそろ終わりに近づいている。

けれど、
今朝の自然は、
まだ私に何かを語りかけたいらしい。

ふと、水辺に目を向けた。
薄桃色の花が、
水面に向かってしなやかに枝を垂らしている。

芙蓉。

ああ、あなたも咲いていたのね。
柔らかな花びらを広げ、
朝の光をそっと受け止めている。

その花言葉は、
「繊細な美」「しとやかな恋人」

しとやかな恋人。
なんて、今朝の私に似合う響きなのだろう。
思わず微笑んでしまった。

今日は一日、
しとやかな女性でいようかしら。
そんなことを考えながら歩いていると、
また別の芙蓉に出逢った。

こちらは、
目の覚めるような濃い桃色。
その隣には淡い桃色。
そして、清らかな白。

ああ、酔芙蓉。

朝は白く、
時の移ろいとともに桃色へ、
そして深い紅へと染まっていく花。

まるで、
恋する女性の頬のよう。

私は、その花を魅つめながら、
遠い昔に読んだ一冊の小説を思い出していた。

『風の盆恋歌』

一年のうち、
ほんのわずかな日だけ逢瀬を重ねる、
大人の男女の物語。

その恋の儚さよりも、
私の心に深く残っていたのは、
そこに描かれる酔芙蓉の美しさだった。

白から桃色へ。
そして、紅へ。
同じ花なのに、
こんなにも違う表情を魅せる。

私は思った。
人の心も、
これに似ているのかもしれない。

凛としている私。
誰かに甘えたい私。
無邪気に笑う私。
人生を語り合う私。 
そして、
遠く離れた人を想い、
胸をときめかせている私。

色は変われど、花は芙蓉。
心は揺れど、私は私。
その言葉が、
不思議なほど自然に胸へ落ちてきた。

そういえば、
言葉にも活用形というものがある。

同じ言葉でも、
少し形を変えるだけで、
まったく違う表情が生まれる。

助詞をひとつ変えるだけでも、
伝わる心の温度は違ってくる。

「あなたを想う」
「あなたに逢いたい」
「あなたといたい」
どれも同じ心から生まれる言葉。

けれど、
そこに宿る余情は、
少しずつ異なっている。

私も、きっとそうなのだろう。
出逢う人によって、
違う自分が顔をのぞかせる。

けれど、
どの自分も偽りではない。
主語はいつも私。
心の活用形は、無限にある。
そして、その中心には、
変わることのない一本の芯がある。

人生の道は、
ずいぶん曲がりくねってきた。
寄り道もした。
迷ったこともあった。

けれど、
心だけはまっすぐでありたい。

自由でありながら、
純粋でありたい。

それが、
私の生き方なのだから。

そんなことを考えながら、
私は再び芙蓉の花を魅つめた。

白い花。
淡い桃色の花。
そして、深い桃色の花。
どの花も、
それぞれに違う美しさを持っている。

けれど、
その根はひとつ。

ああ、私もそうなのかもしれない。

人生のさまざまな場面で、
いくつもの自分に出逢ってきた。

あるときは、
少女のように無邪気に笑い、
あるときは、
誰かの優しさに甘え、
またあるときは、
大人の女性として、
静かに人生を語り合う。

そして、
大切なものを守るときには、
背筋を伸ばし、
凛として前を向く。

そのどれもが、
私の中にある本当の姿。

私は決して、
ひとつの色に染まりたいわけではない。
白も、薄桃色も、深い桃色も。

そのときどきの心のままに、
自由に咲いていたい。

人との出逢いは、
そんな私に、
新しい色を教えてくれる。

知らなかった世界を知り、
思いがけない言葉に心を動かされ、
自分の中に眠っていた感情に気づく。

そして、
そのひとつひとつが、
私自身を磨く力になっていく。

不思議ね。

誰かのために美しくありたいと思うことが、
いつの間にか、
自分自身をもっと好きになることに
つながっている。

誰かを想って胸をときめかせることも、
誰かと笑い合うことも、
誰かの言葉から何かを学ぶことも。

そのすべてが、
私の人生を豊かにしてくれている。

けれど、
私の人生の主人公は、
いつだって私。

誰かの望む色だけに染まるのではなく、
自分の心が選んだ色をまといながら、
歩いていきたい。

そして、
私の心の奥には、
いつも小さな桃色の灯がともっている。

その灯は、
誰かに与えてもらったものではない。

長い年月をかけて、
私自身が育ててきた光。

嬉しいときには、
軽やかに揺れ、

誰かに甘えたいときには、
柔らかく瞬き、

つらいときには、
静かに私を温めてくれる。

そして、
凛として前を向くときには、
そっと背中を押してくれる。

私は、
その小さな灯を大切にしていきたい。

激しく燃え上がらなくてもいい。
誰かに魅せるためだけに、
輝かせなくてもいい。
ただ、
私が私らしく生きている限り、
心の奥で静かに灯り続けていてほしい。

私はもう一度、
芙蓉の花に目を向けた。

白から桃へ。
そして、深い紅へ。
移ろう色の中に、
いくつもの私が咲いている。

色は変われど、花は芙蓉。
心は揺れど、私は私。

ああ、なんて素敵なのだろう。

年齢を重ねても、
こんなふうに心をときめかせ、
新しい自分に出逢えることが。

そして、
その自分を素直に好きだと思えることが。

私は、
朝の光にそっと微笑みかけた。

凛として、艶やかに。
自由で、純粋に。

今日も私は、
いくつもの心の色をまといながら、
自分だけの一本道を歩いていく。

白い朝の中で、
私の心の桃色の灯が、
またひとつ、
静かに揺れていた。


白芙蓉
桃に染まりて
朝を舞い
幾色まとい
凛と咲くわれ

— Morimura