午前2時13分。
アラームが鳴るよりも早く、目が覚めた。

昨夜、どうしても見つけてみたいと
願った星があったからだろうか。
横浜のベランダから見上げた群青の空。
そこには三つの星が、
少し斜めに並んでいた。

オリオンのベルト。
そのすぐ下には、小さな光が連なる剣。
さらに目を凝らすと、
周囲にもいくつもの星が散りばめられている。

昨日は名前だけを知っていた星が、
今朝は私の目の前で輝いている。
ほんの少しベランダの角へ移動しただけで、
それまで建物に隠れていた星まで
見えるようになった。

空は何も変わっていないのに、
私が立つ場所を変えただけで、世界が広がる。
思わず何度も写真を撮った。

昨夜の願いが、
眠りから覚めた途端に叶ったことが嬉しくて、
誰かに話したくてたまらなかった。

その嬉しさを胸に、
私は新幹線へ乗り込んだ。
車窓の向こうには、次々と移りゆく街の景色。
けれど私の心は、
まだあの夜明け前の空にあった。

あの狩人は、
いったいどんな物語を背負っているのだろう。

ギリシャ神話のオリオンは、
並外れた力を持つ巨人の狩人。
海の神ポセイドンの息子とも伝えられ、
野山を自在に駆け巡ったという。

そして彼の物語には、
月と狩猟の女神アルテミスが登場する。
アルテミスは、アポロンの双子の妹。
森を愛し、弓を手に獲物を追う、
誇り高い女神だった。

そんな彼女とオリオンは、
ともに狩りを楽しむ仲となる。
やがて二人のあいだに、
深い愛情が芽生えたと語る伝承もある。

月を司る女神と、大地を駆ける狩人。

生きる世界が違っていても、
同じ森の風を感じ、
同じ獲物を追い、
同じ空の下で笑い合う。
そう思い描くだけで、
ふたりの姿が目に浮かぶようだった。

天上と地上のあわいに生まれた、ひとつの恋。
私はその響きに、しばらく心を預けた。

けれど、神々の物語に、
穏やかな幸福だけが続くとは限らない。

ある日、アポロンは
遠い海を泳ぐオリオンの姿を見つけた。
海面に小さく見えるその頭を指さし、
妹に問いかけたという。

「あの遠くの黒いものを、射抜けるか」
それが大切な人だとは知らず、
アルテミスは弓を引いた。
狙いを定め、矢を放つ。
その一矢が、オリオンの命を奪ってしまった。

やがて岸へ運ばれた姿を見て、
彼女は自分が何を射たのかを知る。
悲しみのあまり、
愛する狩人を天の星々の中へ置いた――。
そんな切ない伝承が残されている。

自分の腕前を誇るために放った矢が、
最も大切な存在を奪う。
神であっても、取り返せない一瞬がある。

もしアルテミスが夜空を見上げるたびに、
そこにオリオンを探すのだとしたら。
あの三つ星の輝きは、
悲しみの果てに残された、
消えることのない想いなのかもしれない。

一方で、オリオンには別の最期も語られる。
自らの狩りの腕を誇り、
地上の獣をことごとく倒すと
言い放ったために、
大地の女神がサソリを送り、
その毒で命を落としたという物語。

だから夜空では、
オリオン座とさそり座は
季節を隔てて姿を現す。
まるで狩人が、
いまもあの小さな敵を避けているかのように。

どちらが唯一の真実なのか、
と考えるのは少し違うのかもしれない。
神話とは、同じ星空を仰いだ人々が、
幾世代にもわたって
紡いできた想像の記憶なのだから。

そして今朝、私が見つけたあのベルト。
三つの光は、
アルニタク、アルニラム、ミンタカ
という名を持つ。
その下に吊り下がる剣の中央付近には、
オリオン大星雲がある。

約1,300光年彼方、
そこでは今も新しい星が生まれているという。
あの星雲を形づくるガスや塵の中で、
まだ若い星たちが生まれている。

月明かりのように淡いと感じた場所が、
実は壮大な誕生の舞台だったなんて。
なんて不思議なのだろう。

神話の中では、
命を失った狩人が星となり、
現実の宇宙では、
その剣の中で新たな星が生まれ続けている。

終わりの物語と、始まりの風景が、
ひとつの星座の中で静かに寄り添っている。
あのとき、剣のあたりに感じた、
ほのかな光の重なり。
それが大星雲そのものとして
写ったかどうかは、私にはまだわからない。

けれど、確かにその場所を
自分の目で探し当てた。
それだけで、遥かな宇宙が
少し身近になった気がした。

神話を知らなくても、星は輝いている。
けれど、物語を知ることで、
同じ光が昨日とは違う表情を魅せ始める。
私はそんな変化が好きだ。

子どもの頃は、
星の名前を覚えることが苦手だった。

今は、ひとつ名前を知るたびに、
もっとその先を知りたくなる。
星を点として覚えるのではなく、
その光の向こうにある物語を感じること。
もしかすると、
それが今の私にとっての
星空の学びなのだろう。

昨夜の小さな願いは、
今朝、思いがけず叶った。
次にあの空を見上げるときには、
きっともう、ただの三つ星には見えない。

ベルトと剣をまとい、
月の女神の記憶を背負い、
星々が生まれる場所を胸に抱いた、
天空の狩人。

遠い時代の神話も、
今を生きる私のときめきも、
同じ群青の空の下で出逢ったのだ。

和歌山へ向かう旅の途中、
車窓には明るい朝が流れていく。
私の心には、
まだ夜明け前のオリオンが輝いている。

— Morimura