長い一日が終わろうとしている。
もうすぐ22時。

20時頃、ようやく我が家へ戻ってきた。
8日ぶりの自宅。
ああ、帰ってきたんだ。
そんな安堵とともに、
どっと疲れが押し寄せてきた。

本当なら、そのまま何もせず、
ゆっくり横になりたいところだった。
けれど、明日も忙しくなりそう。
20日からの出張。
そして21日からの横浜ステイ。
少しでも準備を進めておかなければ。

そう思い、眠たい目をこすりながら、
さっきまでせっせと洋服を選んでいた。
あのブラウスには、このスカート。
こちらには、黒のニットブーツ。
赤いトレンチを合わせようか。
それとも黒のライトダウンにしようか。
あれこれ組み合わせを考えながら、
ようやく9日間の装いにも目処がついた。

ふう……。
これで、少し安心。
やっと一息つけそうだ。
いつも私がくつろいでいる場所は、
きれいに整えられていた。
ああ、気持ちよさそう。
あそこにごろんと横になったら、
きっとそのまま眠ってしまうだろう。

けれど、今日は結局、
ごろごろする時間もなかった。
考えてみれば、今日は日曜日。
本来なら、
少しくらいのんびりしていても
よさそうなものなのに。
朝からずっと働いていたような気がする。

いや、実際によく動いた一日だった。
なんだか、おかしくなってしまった。

さて。

ようやく支度にも区切りがついたところで、
温かいコーヒーを淹れた。
そして、ベランダへ。

ふわり。 

夜風が頬を撫でてゆく。

「ああ、気持ちいい……」
8日ぶりに感じる、我が家の夜風。

もちろん、
旅先でも毎日のように風と語り合っていた。
けれど、こうして自分の暮らす場所で
感じる風には、また違った安らぎがある。

「ねえ、風さん」ふと、声をかけてみた。
「夜風がとっても気持ちいいね」

すると、頬を撫でる風が、
もう一度ふわりと通り過ぎた。

「そうでしょう」
そんな返事が聞こえたような気がした。

ふふっ。
やっぱり風さんは、
どこにいても風さんなのね。

温かなコーヒーをひと口。
そして、ゆっくりと空を見上げる。
そこには、
私の大好きな群青の世界が広がっていた。
けれど今夜は、
星々が輝く澄み切った空ではない。

群青の空には、
もくもくとした薄いグレーの雲が浮かんでいる。白いもやをまとったような、柔らかな雲。
まるで、今日一日のいろいろな想いが、
空からぶら下がっているみたい。
そんなことを思いながら眺めていた。

あれも、これも。今日という一日の中で、
心に触れたさまざまな出来事。
その一つひとつが、
雲になって浮かんでいるのかもしれない。

すると、不思議なことに気がついた。
あの薄いグレーの雲。
どこかで見たような気がする。

そうだ。

今朝、群青の空に追い求めていた、
オリオンの剣。
その真ん中あたりに位置する、
オリオン大星雲。
あの星々を生み出す、壮大な宇宙のゆりかご。 

もちろん、目の前の雲は、
宇宙の星雲とはまったく違うもの。
それなのに、私の心には、
どこか似ているように映った。
薄く広がる光のもや。
その奥に、
何かが静かに息づいているような気配。
星が生まれる場所。
その言葉が、再び心に浮かんできた。

今朝は、遠い宇宙の神秘に
想いを巡らせていた。
そして今夜は、我が家のベランダから、
同じように空を見上げている。

朝と夜。
遠い宇宙と、身近な空。

まったく違う世界のようでいて、
私の心の中では、
一本の見えない糸でつながっている。
なんとも不思議なものだ。

そういえば、
最近になって気づいたことがある。
空を見つめるというのは、
なんてロマンティックなことなのだろう。
以前から空を眺めることは好きだった。

朝陽も、雲も、風も。
けれど、星々の名前を知り、
その向こうに広がる物語を
知るようになってから、
空はますます奥深い世界になった。

ただの光の点だと思っていた星にも、
名前があり、歴史があり、神話がある。
そして、その遥か彼方では、
今この瞬間にも新しい星が生まれている。

そう考えるだけで、胸が高鳴る。
何億光年という途方もない距離。
何万年、何億年という時間。
そんな宇宙の営みを思えば、
人間の一日など、
ほんの一瞬なのかもしれない。

けれど、その一瞬の中にも、
どれほどたくさんの物語が
詰まっていることだろう。

今朝、オリオンに魅せられた私。
今夜、夜風に包まれている私。
どちらも同じ私なのに、
心に映る風景は少しずつ違っている。

きっと、今日一日を過ごした分だけ、
私の心にも新しい何かが生まれたのだろう。

ねえ、風さん。
私の心の中にも、
小さな星が生まれているのかしら。

ふわり。

また、優しい風が通り過ぎた。
答えは聞こえない。

でも、それでいい。
すべての問いに、
答えが必要なわけではないのだから。

温かかったコーヒーが、
少しずつ冷め始めている。
そろそろ部屋へ戻らなければ。
明日も朝から忙しい。
何より、今夜は早く休んだ方がいい。

それは、よくわかっている。
でもね。もう少しだけ、
この夜風に当たっていたい。
8日ぶりに帰ってきたという実感が、
風とともに、
ゆっくり心に染み込んでくるから。

旅先で出逢う風も好き。
けれど、今夜の風には、
どこか懐かしい温もりがある。

「おかえり」そんな言葉を、
そっと運んできてくれたような気がした。
私はもう一度、群青の空を見上げた。

薄いグレーの雲は、まだそこに浮かんでいる。
まるで、私が部屋へ戻るのを
待っているかのように。

ねえ、風さん。
今夜は、もう少しだけ。
この群青の世界に、
心を預けていてもいいかしら。

ふわり。

優しい夜風が、静かに頬を撫でた。
それはきっと、「おかえりなさい」という、
風さんからの小さな贈り物だったのだろう。


夜風に寄せる長歌

群青の
空を見上げて
星を恋い
朝には遠き
宇宙を想う
夜には近き
我が家の風に
心を預け
八日の旅を
静かにほどく
雲のあわいに
生まれる光
明日へつながる
小さき希望よ

反歌

八日経て
戻りし夜の
風やさし
群青の空に
心ほどける

— Morimura