風ぼっこ|ゼロの輪郭に、風が吹く✨
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今日は、朝からずっと、何かを探し、
何かを結び、そして何かをほどいていた。
自分の思いだけで、
いつの間にか固く結んでしまった心の結び目。
ひとつほどけば、またひとつ。
あれにも返事をしなければ。
これも片づけておかなければ。
全部を今日中に終わらせなければ。
誰かに強いられたわけでもないのに、
私は自分で自分を締めつけていたらしい。
けれど、今日でなくてもよいことは、
今日やらなくてもいい。
先へ延ばすと決めることも、
今日できる仕事のひとつ。
そう気づくたび、
固い結び目が少しずつ緩んでいった。
帰宅してからも、
残っていた細い糸をほどくように、
洗濯物を畳み、
明日からの出張の支度を整えた。
そして、ようやくベランダへ。
そろそろ夕方になろうとしている。
ラフなルームウェアに着替えた身体に、
涼しい風がすうっと触れる。
ああ、気持ちがいい。
家の中では、家族が夕食を作ってくれている。
今の私は、何かを急いで仕上げなくてもいい。
日向ぼっこならぬ、風ぼっこ。
何ともおかしな言葉だけれど、
今の私にはぴったりだ。
空は、ほとんど真っ白。
けれど、その白の奥には、
限りなく透明に近いブルーが息づいている。
朝、あれほど懸命に探した星も、
今はどこにも見えない。
消えたのではない。
ただ、空の光の向こうにいるのだろう。
もうしばらくすれば、
この空にも夕暮れの色が差してくる。
風さん。
今なら、あなたを呼んでみたい。
今日の私の心も、
この風と同じくらい軽いのだから。
ふと、昼間に書いた一字が浮かぶ。
「解」解く。
解きほぐす。
解き放つ。
数学が好きな私は、
「解」と聞けば、
まず方程式を思い出す。X=1。
ひとつの答えにたどり着くことが、
解くことだと思っていた。
けれど、今日の私は、
答えを出したから軽くなったのではない。
答えを急がずに置いておくこと。
今すぐ解決しなくてもいいと、
自分に許すこと。
そうして、心の結び目をほどいた。
何かを学び、何かを手に入れたのに、
同時に何かを手放した。
足し算と引き算を繰り返して、
心の中が静かになっていく。
プラスマイナス、ゼロ。
あれ。
ゼロ?
その言葉に、
遠い昔に読んだ数学の本の記憶が、
ふっと顔を出した。
ゼロは、特別な数字だったはず。
正でもなく、負でもない。
数直線の上では、
プラスとマイナスの境目にある。
数学のゼロは、確かなひとつの数。
どこにも定まらない曖昧な数ではない。
けれど、そのすぐそばには、
限りなくゼロに近づいていく数が、
どこまでも続いている。
0.1、0.01、0.001……。
ゼロそのものは動かない。
それなのに、
ゼロの周りには、
尽きることのない世界が広がっている。
そう考えたとき、
私は妙に嬉しくなった。
今の私の心も、ゼロなのだ。
ただし、何もないゼロではない。
これから何かを始められる、
スタートラインとしてのゼロ。
明日からでもいい。
今日からでもいい。
いいえ、今この瞬間からだって。
始めるのは、
誰にも気づかれないほど
小さなことでかまわない。
その一歩の向こうには、
まだ知らない景色がある。
そして、もうひとつ気づいた。
私は、昔の私に戻りたいわけではない。
遠い昔のゼロ。
一年前のゼロ。
昨日のゼロ。
そして、今この瞬間のゼロ。
数字としては、どれも同じゼロ。
けれど、人生のゼロは、
同じではないように思う。
嬉しかったことも、
悔しかったことも。
出逢いも、別れも。
迷いながら歩いた道も、
思いがけず拾った言葉も。
そのすべてが、
ゼロを描く輪郭に重なっている。
昔の私が描いたゼロは、
もっと細い線だったかもしれない。
今の私のゼロは、
きっと一番濃く、太い線で、
ぐるりと描かれている。
しかも、不思議なことに、
輪郭が太くなるほど、
その内側の余白まで豊かに感じられるのだ。
初心に帰るとは、
経験を捨てて昔に戻ることではないのだろう。
経験を重ねた今の私が、
もう一度、
新しい一歩を踏み出すこと。
ゼロに戻ることと、
ゼロから始めることは、
似ているようで、まったく違う。
今日、ようやくそれがわかった気がする。
ベランダを風が通り抜ける。
何も解決していないことだって、まだある。
けれど、それを今、
無理に結び直さなくてもいい。
心はゼロ。
けれど、空っぽではない。
太く濃い輪郭の内側には、
これから描く物語のための余白がある。
思えば、
今朝は失くした言葉を追いかけていた。
昼には、心の結び目をほどいていた。
そして夕暮れ、
ようやくたどり着いたのが、このゼロだった。
なんという一日だろう。
風さんが、
背中をそっと押してくれたような気がした。
急がなくていい。
けれど、いつでも始めていい。
そんな声が、
風の中から聞こえてくるようだった。
私は、昔の私に戻るのではない。
今まで生きてきた私のままで、
もう一度、ゼロから始める。
風ぼっこをしながら、
人生で一番濃いゼロを、心の中に描いた。
その輪郭の向こうには、
まだ見ぬ無限の可能性が広がっている。
そして、もう一度、風を感じる。
何かを始めるために、
今すぐ動き出さなくてもいい。
ただ、風に身を委ねる。
その何もしない時間さえ、
次の何かを生み出すための、
大切な余白なのだから。
ゼロは、何もない場所ではない。
これまでのすべてを抱いたまま、
新しい自分が始まる場所。
今、この瞬間。
私のゼロに、風が吹いている。
— Morimura