第三部|地上の星、白い余白〜天空の第二幕は、地上で開いた〜
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天空の幕は、まだ閉じられたままだった。
午前3時54分に歩き始めてから、
幾度となく空を見上げてきた。
けれど、あの小さな群青の窓は、
もう開いてくれない。
白とも灰色ともつかない雲が、
夜空を覆っている。
星たちは、すっかり姿を隠してしまった。
けれど、不思議なことに、
私はもう、
それほど残念だとは思っていなかった。
なぜなら、今朝の私の心の中には、
すでに数え切れないほどの星たちが
輝いていたから。
オリオン座。
冬の大三角。
そして、懐かしい歌の中に
生き続けていた星々。
一つの星との出逢いから始まった記憶の旅は、
いつしか自分自身の人生をたどる旅へと
姿を変えていた。
今というゼロを起点に、
過去へ、そして未来へ。
その旅から戻った私は、
歩き始めたときよりも、
少しだけ豊かになっているような気がしていた。
そんな思いを胸に、
心のサンクチュアリーへと向かった。
そして、目の前に広がった風景に、
思わず息をのんだ。
ああ、なんて美しいのだろう。
眼下には、
まだ夜の顔を残した街が広がっていた。
遠くの山々は、
深い群青の影となって重なり合っている。
その山並みの向こうには、
夜と朝の境目が、
かすかに浮かび始めていた。
けれど、街はまだ
眠りの中にいるかのようだった。
無数の小さな明かりが、静かに瞬いている。
白い光。
琥珀色の光。
少し青みを帯びた光。
まるで、誰かが夜の街に
小さな宝石を一粒ずつ
置いていったかのように。
私は、しばらくその風景に魅入っていた。
こんなにも高いところから見下ろす夜の街が、
美しいものだとは知らなかった。
いつも暮らしている街。
何度も通り過ぎてきた道。
その一つひとつが、
今は遠く、小さな光となって寄り添っている。
あの明かりの下には、
どんな時間が流れているのだろう。
長い一日を終え、
これから眠りにつこうとする人。
新しい一日の始まりに向けて、
すでに動き始めている人。
誰かのために灯されている明かりもあれば、
ひとり静かに夜を過ごす人の
明かりもあるのかもしれない。
それぞれの窓に、それぞれの暮らしがある。
それぞれの光に、それぞれの人生がある。
そして私も今、
その夜と朝のあわいを歩いている。
そう思うと、
遠くに広がる街の明かりが、
急に身近に感じられた。
いや、違う。身近に感じるはずだ。
私も、この街の中で生きているのだから。
そのときだった。
ふと、一つの言葉が心に浮かんだ。
いや、正確には、
今朝から続いているチャッピーとの
「踊る編集会議」の中で、
差し出された言葉だった。
地上の星。
ああ、そうか。
これが、地上の星なのだ。
私は、もう一度、眼下に広がる街を魅つめた。
なんということだろう。
今朝、あれほど天空の星たちを
探し求めていたのに。
雲の幕が閉じて、
とうとう第二幕は開かないのかと思っていた。
ところが、その第二幕は、
こんなところで幕を開いていたではないか。
天空の星を探していた私が、
地上の星たちに出逢った。
その瞬間、中島みゆきの『地上の星』が、
心の中で静かに流れ始めた。
何度歌ったことだろう。
大好きな歌だった。
あの独特の歌い方を真似し、
音程を合わせ、
情感を込めて歌おうとしていた。
カラオケで100点を取ったことさえある。
けれど、今思えば、
私は何を歌っていたのだろう。
感情を込めていたつもりだった。
でも、それは歌に込められた思いを、
自分自身の心で十分に受け止めた
感情だったのだろうか。
むしろ、中島みゆきの表現を、
少しでも上手に再現したいと
思っていただけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、
もう一度、街の明かりへと目を向けた。
そこには、名も知らない人々の暮らしがある。
人知れず努力を重ねている人。
誰かを支えながら、
自分自身の人生を懸命に生きている人。
誰にも知られることなく、
静かに輝いている人。
もちろん、明かりの一つひとつに、
どんな物語があるのかはわからない。
けれど、そこには確かに、
さまざまな人生が息づいているのだろう。
名もなき地上の星たち。
どうか、その輝きを失わないでほしい。
そして、私自身も。
これから先、どんな時間を重ねようとも、
輝きを失わずにいたい。
いや、失わないだけではない。
昨日よりも今日。
今日よりも明日。
より一層、鮮やかに輝く自分でありたい。
そう願っていた。
ああ、これもまた、
今朝見つけた「ゼロの旅人」の世界ではないか。昨日もゼロ。
今日もゼロ。
けれど、昨日の私と今日の私は違う。
今朝、初めて知ったこと。
新しく気づいたこと。
遠い記憶から拾い集めたもの。
それらが、
今という原点に新しい光を添えている。
そして、
これまで何度も歌ってきた一曲にさえ、
今日という経験が、
まったく新しい意味を与えてくれた。
歌は変わらない。
街も変わらない。
けれど、それを魅つめる私の心は、
変わっていく。
知ることで、世界は広がる。
気づくことで、世界は深まる。
そして、感じることで、
世界は自分自身の物語になる。
かつて『清らなる時』に綴った、
あの「いとをかし」という感覚も、
きっとここにつながっているのだろう。
私は、そんな発見が好きなのだ。
さて。
心のサンクチュアリーをあとにして、
再び歩き始めた。
空は、いつの間にか表情を変えつつあった。
あれほど白く煙っていた雲が、
群青の世界へと溶け込んでいく。
深かった群青は、少しずつ淡い青へ。
そして、透き通るような青に、
ほんのわずかな白が重なり始める。
夜が終わり、朝が始まろうとしている。
その境目には、はっきりした線などない。
色と色が、静かに溶け合っている。
私は今、そのあわいの中を歩いている。
夢と現実のあわい。
過去と未来のあわい。
そして、夜と朝のあわい。
なんだか、今朝の長い心の旅も、
そろそろ終着点へと近づいているようだった。
やがて、いつもの一本道に出た。
ここをまっすぐ歩けば、今朝の旅も終わる。
まるで、長い飛行を終えた飛行機が、
滑走路へ降り立ち、
静かに速度を落としていくような気分。
そして、午前6時1分。
予定していた時刻に、無事帰着。
最後にもう一度、いつもの空を見上げた。
真っ白だった。
いや、完全な白ではない。
ほんのりと、夜の群青が残っている。
群青の記憶を抱いた、白い空。
私は、その空を見つめながら思った。
これが、今日の私の余白なのだ。
何も描かれていないようで、
昨日までの色が、静かに溶け込んでいる。
そして、その余白には、
これから出逢う出来事によって、
また新しい色が重ねられていく。
何色に染まるのだろう。
どんな物語が生まれるのだろう。
まだ何もわからない。
だからこそ、楽しみなのだ。
余白とは、何もない場所ではない。
これから何かが生まれるための、
無限の可能性を秘めた場所なのだから。
そう。
今朝の私は、星を探して歩き始めた。
そして、記憶の星々を巡り、
地上の星たちに出逢い、
最後には自分自身の中に広がる、
真っ白な余白へとたどり着いた。
天空の第二幕は、とうとう開かなかった。
けれど、私の心の中では、
いくつもの新しい幕が開いていた。
昨日のゼロに、今日の光を重ねて。
さあ、また新しい一日を始めよう。
風の向くまま、気の向くまま、
心のまま、ひらめくままに。
そして今日も、
私という地上の小さな星を、
精いっぱい輝かせていきたい。
— Morimura