今宵も、ビスカウトクラブの扉が開く。

琥珀色の灯りに包まれたラウンジ。
ボルドー色のソファには、
柔らかな光が落ち、
テーブルの上ではグラスが静かに輝いている。

私はお気に入りのバニースタイルに身を包み、
銀色のトレーを手に、
お客様をお迎えする準備を整えていた。

今夜のお客様は、
長いお付き合いを重ねてきた大切なあなた。
いつもお仕事帰りに、
私に逢いに来てくださる。

最初は特に曜日も時間も
決めていたわけではなかった。
それが、いつの間にか決まった頃合いに、
ゆっくりと時間をともにするのが
お決まりになっていた。

まるで時計の針が、
私たちだけの約束を
覚えてしまったかのように。

けれど、
最初からそんな親しい
間柄だったわけではない。

今でも鮮やかに覚えている。
初めてお逢いした日のことを。

あの日、
あなたがお部屋へ迎え入れてくださったとき、
小さなスピーカーから
中島みゆきの歌が流れていた。
たしか『糸』だっただろうか。

「初めまして、森村です」
するとあなたは、「よろしくね」と、
カラリとおっしゃった。
そう、さらりではなく、カラリ。
余計な飾りのない、
明るくて気持ちのよい一言。

あれから何度お逢いしても、
あなたはいつも同じ調子で
「よろしくね」とおっしゃる。
その言葉を聞くたび、
私は心がふっと軽くなる。

ビールを楽しんでおられたあなたの隣に、
ちょこんと腰を下ろした。
「私、中島みゆきの歌が好きなんですよ。
カラオケでもよく歌うんです」

するとあなたは、
「じゃあ、歌って」

えっ?

思わず辺りを見回してしまった。
だって、お部屋には
カラオケの設備なんてないのだから。

するとあなたは、
スマートフォンで音楽を流してくださった。
なるほど!
そういうことね。
私はテレビのリモコンを
マイク代わりに握りしめ、歌い始めた。

たしか『地上の星』だったと思う。
最初は少し戸惑っていたはずなのに、
歌い始めると、もう止まらない。
いつの間にか、
すっかり歌の世界に入り込んでいた。

それが、あなたとの最初の音楽会だった。

ほどなくして、
あなたはまた逢いに来てくださった。
そのとき、
私はちょっぴりいたずらっぽく尋ねた。

「この前、
私にビールを飲まないかって
誘ってくださらなかったわね」

するとあなたは、
「だって、仕事中だから
飲まないのかなと思ったんだよ」

あら、そうだったの。
「私、あなたとだったら
楽しく飲んで歌いたいわ」

そんな会話から、
私たちのお決まりの時間が生まれた。

まずはビールで乾杯。
おつまみをいただきながら、
歌って、おしゃべりして、また笑う。
ときには私が歌い、
ときにはあなたと一緒に口ずさむ。

そして、賑やかな音楽会のあとには、
もうひとつの優しい時間が訪れる。

言葉よりも、
ぬくもりの方が雄弁になる時間。
そっと抱きしめ合えば、
心の奥から桃色の吐息がこぼれる。
そんな甘く穏やかなひとときを、
私たちは幾度となく重ねてきた。

そういえば、忘れられない夜がある。
去年の年末頃だっただろうか。
私が、仕事の都合で
しばらくお休みが多くなるかもしれないと
お伝えしたときのこと。

あなたは「最後の晩餐」とでもいうように、
いつもよりずっと長く、
私のその日の最後の時間まで
一緒に過ごしてくださった。
そのお気持ちが、何より嬉しかった。

長く一緒にいればいるほど、
あなたの優しさが伝わってくる。
そして逢瀬を重ねるたび、
少しずつ、あなたの心に近づいていく私。
あなたもまた、
私の心にそっと近づいてくださる。

ふたつの心が、同じ音色で響き合う。
そんな瞬間が、今でもたまらなく愛おしい。

あなたが好きだとおっしゃっていた、
ユーミンの『埠頭を渡る風』
私は一生懸命練習して、ようやく覚えた。
そして、あなたの前で初めて歌った日。
褒めてくださったことが、本当に嬉しかった。

今ではすっかり私の定番曲になっている。
そして『真夏の夜の夢』も、
私のお気に入りのレパートリー。

けれど、二人の気分が最高潮になるのは、
やっぱりあのデュエット曲
『ビールを回せ』!
この曲が始まると、もう大変!
ふたりでビールグラスを手に、
歌って、笑って、また乾杯。

まるで二人だけの小さなコンサート。
誰かに聴かせるためではない。
上手に歌うためでもない。
ただ、あなたと一緒に楽しみたい。
その気持ちだけで、
音楽がこんなにも輝くなんて。

ねえ、あなた。
私たち、なかなか素敵な音楽仲間でしょう?

さて、そろそろあなたがいらっしゃる頃。
いつもの指定席に、グラスをふたつ。
今夜も、あなたをお迎えする準備が整った。
さあ、ビスカウトクラブの扉を開きましょう。 


そして今宵もまた、いつものように。
飲んで、つまんで、歌って、おしゃべりして。
あなたとの会話は、
まるで小さな鈴がコロコロ転がるよう。
くすぐったくて、
可笑しくて、
思わず笑い声が弾けてしまう。

部屋いっぱいに広がる、名もない音楽会。
何度も同じような時間を過ごしているのに、
どうして毎回こんなに楽しいのだろう。

きっと、同じ時間など一度もないから。

同じ歌を歌っても、
その日の心は少しずつ違う。
同じ笑顔に逢えても、
そのたびに新しいときめきがある。

そして、賑やかな音楽が
静かに余韻へと変わる頃。
私たちの時間は、
もうひとつの物語へと移っていく。

今夜は、月の下でチークダンス。
ゆっくりと身体を寄せ合い、
あなたの胸にそっと頬を預ける。
優しく抱きしめられると、
あなたの温かさが心の奥まで伝わってきた。

まるで、秋の夜に温かい夢を見ているよう。
言葉はいらない。
ただ、このひとときが愛おしい。

出逢ってから、幾度となく季節が巡った。
私たちの間には、
たくさんの歌と、
たくさんの笑顔が積み重なった。

そして、これからも。
いつもの約束の時が近づくたびに、
きっと私はあなたの笑顔を
思い浮かべるのだろう。

ありがとう、あなた。
今夜も素敵な時間をありがとう。
また来月。
いつもの笑顔で、
いつものように。

「よろしくね」その一言から、
また新しい音楽会を始めましょう。
ビスカウトクラブの灯りは、
今宵も優しく輝いている。
あなたと過ごした秋の夜の余韻を、
そっとグラスに閉じ込めて。

今宵、あなたに一杯の物語を。

— Morimura