今日は、なんだか疲れてしまった。
朝早くから、いつものように歩き始めた一日。

けれど、今日はいつもとは少し違った。
あちらに気を回し、こちらに気を回し。
あれこれ考え、連絡し、手配して。
頭の中は、朝から大忙し。

そして夜は、楽しい歌声に包まれたひととき。
飲んで、歌って、笑って。
気がつけば、
心地よい疲れが身体いっぱいに広がっていた。

ああ、もう眠たい。
今日は珍しく、
22時でお仕事を切り上げることにした。
いつもなら、決めた時間までは頑張る私。

けれど、今夜ばかりは
早く帰って眠りたかった。
さあ、帰って寝ましょう!……ところが。

あれ?

化粧ポーチがない。
スケジュール帳もない!
あらららら……。
なんということでしょう。
せっかく早く帰ってきたというのに、
肝心なものを忘れてきてしまった。

明日の朝には、どちらも必要。
仕方がない。
もう一度、取りに戻りましょう。
まったく、
こんなときに限って忘れ物をするのだから。
我ながら、なんというおっちょこちょい。

そうして、再び夜道をてくてく。
ところが……。
横断歩道を渡り、
ふと、空を見上げると、

あっ!お月さま!

思わず足を止めた。

群青の空に、
オレンジ色の神秘的な光を放つ月。
半分よりもちょっぴりふっくらとした、
なんとも愛らしい姿。

ああ、綺麗。

しばらく、その姿に魅入ってしまった。

そういえば、十五夜の頃。
あの月の中に、
ヒカリンの姿を見つけたことがあった。

あの頃は、まだ暑い、暑いと
言っていたのではなかっただろうか。
それが今夜はどうだろう。
頬をなでる風は、ひんやりと冷たい。
秋が深まり、少し気の早い冬が、
もうすぐそこまで
やって来ているような気配。

季節というものは、
知らないうちに
静かに歩みを進めているのですね。
そんなことを思いながら月を見上げていると、
ふと、今宵の楽しい時間がよみがえってきた。

今夜、あの月明かりの中に見えたのは……。
マイクを握って歌う、私の姿だった。

もっとも、私のマイクは
白いエアコンのリモコンなのだけれど。
今夜は、久しぶりに気持ちよく歌えた。
ちょうど『地上の星』の話をしていたから、
まずは中島みゆき。
そして、ユーミンの『真夏の夜の夢』

真夏はとっくに過ぎてしまったけれど、
気分はすっかり夢の中。
今宵は、秋の夜の夢ということに
しておきましょう。

そして『埠頭を渡る風』
この曲を歌うたび、
独特のリズムと歌詞の世界に心が躍る。

海辺を渡る風。
ゆるやかに続く海岸線。
そして、そっとあなたに身体を預けるような、
甘いときめき。

そんな場面を思い浮かべながら、
思わずあなたの方へ倒れてみたりして。
あら、いけない。
また私ったら。

今宵の月まで、
くすくす笑っているようだった。
それにしても、
今夜は本当によく声が出た。

気持ちがいいから、
ついつい調子に乗ってしまう。
小柳ゆきの『愛情』
この曲は、
思いきり声を張り上げたいときにぴったり。
胸の奥にあるものを、
すべて歌声に変えてしまうような爽快感。

そして、デュエット。
さらにはアニメソングまで。
歌って、歌って、また歌って。
自分でも驚くほど、声がよく伸びた。
どうして今夜は、
こんなに気持ちよく歌えたのだろう。
もしかしたら、
朝から気にかかっていたことが、
ひとつずつ片づいていったからかもしれない。

あれこれと思い悩み、
気を配り続けていた心が、
ようやく少し軽くなったのだろうか。
そう思うと、
今夜の歌声は、
私の心そのものだったのかもしれない。

さて。忘れ物を取りに戻るという、
なんとも間の抜けた夜の寄り道。
けれど、そのおかげで、
こんなにも美しい月に出逢えた。
人生というものは、不思議ですね。

思いどおりにいかなかったことが、
思いがけない贈り物を連れてくる。
早く帰りたかったのに、
また夜道を歩くことになった。

ああ、面倒だな。

そう思っていたはずなのに。

今は、この冷たい風がとても心地よい。
群青の空に浮かぶ、オレンジ色の月。
その柔らかな光を浴びていると、
身体ごと月の光の中へ
吸い込まれていくような気持ちになる。

月は、何も語らない。
ただ、静かに輝いている。
けれど、その光は、
慌ただしかった一日の最後に、
私の心を優しく包んでくれた。

明日も、やることはいっぱいある。
考えなければならないことも、
片づけなければならないことも。

でもね。
明日は明日の風が吹く。

今日できることは、今日やった。
今日楽しめることも、思いきり楽しんだ。
だったら、もう十分ではないかしら。

今宵は、この心地よい疲れと、
歌声の余韻を抱きしめて眠ろう。

忘れ物のおかげで出逢えた、
美しい秋の月。

ありがとう、お月さま。
あなたも今夜は、ずいぶん楽しそうね。
それとも、
また忘れ物をした私を笑っているのかしら。

まあ、いいわ。
今夜は一緒に笑っておきましょう。

さあ、今度こそ本当におしまい。

森村、本日二度目の閉店でございます。

今度こそ、おやすみなさい。


忘れ物
取りに戻れば
月笑う
歌の余韻を
夜風にのせて

— Morimura