第二部|真紅のゼロ、女帝の灯火〜いつか、きっと。その想いを胸に〜
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星を探すつもりで歩き始めた朝だった。
けれど、いつしか星のない空にも慣れ、
足は気の向くままに街をたどっていた。
雲は幾重にも重なり、
群青の光をやわらかく閉じ込めている。
そんな空の下で、
私は柏餅を求めて何軒もの店を訪ね歩いた。
お目当ての白いお餅には逢えず、
手にしたのはホットコーヒーと
シャインマスカット大福。
ふふっ。
思いどおりにならないのも、
朝の散歩の面白さなのかもしれない。
そうして戻ってきた馬車道で、
ふと足が止まった。
関内ホールの前。
目に飛び込んできたのは、
燃えるように真っ赤なモニュメント。
何度も通ったはずなのに、
今朝は妙に存在感がある。
大きなリーフパイのよう。
できることなら、
端からガジガジとかじってみたい。
なんて、ちょっと不謹慎なことを考えて、
ひとり笑った。
けれど、見上げているうちに、
別のものにも見えてきた。
「0」
太く、鮮やかな赤い線で描かれた、
ひとつのゼロ。
まるで胸の奥で燃え続ける炎のようだった。
そうだ。
私は、いつだってゼロの旅人。
ここまで歩いてきた道のりが長くても、
今日という日は、
もう一度新しい起点に立つ日なのだ。
そんなことを考えていると、
近くの建物から軽快な音楽が流れてきた。
馬車道の名を目にした途端、
石畳に馬車の車輪が響くような気がした。
そういえば、もうすぐハロウィン。
かぼちゃの馬車が、
角を曲がって私の前に現れても
不思議ではない。
ふふっ。
シンデレラになってみようか。
けれど、そのとき私の心が向かったのは、
童話の宮殿ではなかった。
遠いロシア。サンクトペテルブルクの冬宮。
そして、女帝エカテリーナ2世。
私が憧れてきた女性である。
豪華な宮廷衣装、
きらめく宝石、
気品に満ちた王冠。
けれど私が魅かれたのは、
女帝としての華麗な姿だけではなかった。
むしろ、
まだ何者になるとも知れなかった頃の、
ひとりの若い女性。
異国の宮廷に身を置き、
言葉を学び、
書物を読み、
自分の未来を切り拓こうとする姿だった。
私の心に残っているのは、
寒さの中、毛布に身を包み、
わずかな灯りの下で
学び続けるエカテリーナの姿。
そこには王冠の輝きよりも、
ずっと小さく、
しかし消えない光があった。
「いつか、きっと」
誰にも聞こえないその言葉を、
胸の奥で繰り返していたのではないだろうか。
孤独と向き合い、
弱さを知り、
それでも明日へ備える。
そういえば、
フランスの王妃マリー・アントワネットにも、
華やかな宮廷の物語がある。
ヴェルサイユ宮殿。
豪華な舞踏会。
美しいドレスに、きらめく宝石。
そんな世界にも心は惹かれる。
けれど、私がエカテリーナに求めた美しさは、
少し違っていた。
かつて読んだ本には、
彼女の容貌は必ずしも
際立って美しいものではなかったと
記されていた。
だからこそ、
内面から輝く自分になろうと
努力を重ねたのではないか。
私は、
そんなふうに彼女の姿を思い描いていた。
もちろん、
歴史の中で彼女が帝位に至った道は、
努力だけで語れるほど単純ではない。
けれど、私がそこに見いだしたのは、
与えられた運命に
ただ身を委ねない意志だった。
美しさとは、ただ華やかに装うことではない。
学ぶこと。
考えること。
自分を磨き、昨日までの自分を
少しずつ越えていくこと。
そうした時間が、
やがてその人の内側に、
誰にも奪えない輝きを育てていくのだと思う。
私自身も、そんな生き方を信じて歩んできた。
努力と根性。
少々古めかしい言葉かもしれないけれど、
私の人生を振り返るなら、
やはりこの二つが浮かぶ。
転ぶことを恐れない。
転んだら、起きればいい。
引き下がることも厭わない。
退いたのなら、また前へ進めばいい。
遠回りした時間さえ、
いつか自分を支える力になると信じている。
努力が必ず望んだ結果をもたらすとは限らない。それでも、報われる日が来ると信じて
努力を続けることはできる。
何かを失ったとき。
思いどおりに進めなくなったとき。
もう一度、
最初からやり直さなければならなくなったとき。そんなときこそ、
私は自分に問いかける。
本当に、もう道はないのだろうか。
いいえ。歩き出せる足がある限り、
道はまた見つけられる。
だから、ゼロに戻ることは敗北ではない。
ゼロは何もない場所ではなく、
次の一歩を踏み出すための起点なのだ。
もう一度、真紅のモニュメントを見上げる。
あの赤い輪の向こうに、
若きエカテリーナの小さな灯火が
重なって見えた。
王冠を夢見た少女と、
今も自分の未来を夢見る私。
遠く隔たった二つの時代が、
今朝の馬車道で、
ほんの一瞬触れ合ったような気がした。
「いつか、きっと」
それは、夢が叶うのをただ待つ言葉ではない。
今日、自分の足で歩き始めるための
言葉なのだ。
私はモニュメントに背を向け、
再び歩き始めた。
街は少しずつ朝へと近づいている。
先ほどまで見つめていた真紅のゼロ。
その鮮やかな赤は、
今も瞼の奥に焼きついている。
そして、ふと顔を上げると、
遠くに優雅な塔の姿が見えた。
まるで、私の心の旅を知っているかのように。
その先に何が待っているのか、
まだ知らない。
けれど、胸の奥に灯った炎は、
今朝も静かに燃えていた。
私は今日も、ゼロの旅人。
風の向くまま、気の向くまま、
心のまま、ひらめくままに。
そして、いつか、きっと。