「いつか、きっと」その言葉を胸に、
再び歩き始めた。

遠くに見えるクイーンの塔。
エメラルド色の王冠を戴いたような、
その優雅な姿に、
遠いロシアの女帝エカテリーナの
面影が重なる。

今朝の私は、
どうやら馬車道の魔法に
かかってしまったらしい。
まだ女帝になる前のエカテリーナ。
孤独の中で努力を重ね、
いつか訪れる未来を信じ続けた少女。
その小さな灯火が、
今も私の心を照らしている。

そんなことを考えながら歩いていると、
ふと、一本の道が目に留まった。
いつもなら、そのまま真っすぐ歩くところ。
けれど、今朝はなぜか
右へ曲がってみたくなった。

初めて歩く、水辺の一本道。
片側には静かに流れる水面。
反対側には、風に揺れる街路樹。
石畳の道には、小さな灯りがぽつり、
ぽつりと続いている。

なんて幻想的なのだろう。
まるで、ひとつひとつの灯りが、
まだ知らない世界へと
私を導いているようだった。
そして、歩を進めるにつれて、
あのクイーンの塔が少しずつ近づいてくる。

あら、本当にクイーンのもとへ続いている。

ふふっ。

なんだか、女王に招かれたような気分。

そうだ。
この道に名前をつけてあげよう。
「クイーンの小径」
なんとも気品のある響きではないか。
小径の先にはクイーンの塔。
そして、私の心の中では、
そのさらに向こうに女帝エカテリーナがいる。

今朝、またひとつ、私だけの小径が生まれた。
ふと水面を見下ろした。
赤や金色の街灯りが、
細かく揺れながら流れている。
その光は、静かな水の中で幾重にも重なり、
まるで小さな炎が燃えているようだった。

見上げれば、空には仏さまの薄衣。
群青の奥に、
ほんのり薄紅色の光が差している。
まるで、頬を染めた少女のよう。

ああ、美しい。

私は、
その少女の面影にも
エカテリーナを重ねていた。
まだ見ぬ未来に胸をときめかせ、
恋に憧れていたであろう
若き日のエカテリーナ。

そして、今も彼女に憧れ続ける私。

ふふっ。

そう考えると、
なんだか私まで少女に戻ったような
気分になってくる。

やがて、恋明りのあづま屋で、
ちょっと一服。
空を見上げると、
群青の世界に
白い雲が二つずつ寄り添うように
浮かんでいた。

その雲を眺めながら、
まだ訪れていない幸せな時間を思い描く。
誰かと笑い合うこと。
同じものを魅つめ、
同じ時間を楽しむこと。
何気ない言葉を交わしながら、
心がふわりと軽くなること。

そんなことを想像しているだけで、
胸がときめいてくる。
私、恋をしているのかしら。
いや、もしかしたら……。
私は、恋をする自分に
恋しているのかもしれない。

誰かを想う幸せ。
そして、その人を想うことで、
無邪気に笑い、
胸を躍らせる自分を愛おしく思える幸せ。
どちらも、なんて素敵なのだろう。

努力と根性で歩んできた人生。
転んだら起きればいい。
引き下がったら、また進めばいい。
そんなふうに自分を奮い立たせてきた私にも、
少女のように頬を染める瞬間がある。

強くあることと、可愛らしくあること。
どちらも、私自身なのだ。
そんな時間を与えてくれた巡り合わせに、
そっと感謝したくなった。

今朝は、仏さまの薄衣に包まれた空だった。
だから、今日は仏さまに感謝しよう。

ふふっ。

やがて、海の向こうに広がる
街の灯りが見えてきた。
色とりどりの光が海岸線を彩り、
その輝きが水面に映っている。
水と、街灯りと、空。
三つの光が奏でる、幻想的な世界。
まるで、ずっと夢の中を
さまよっているようだった。

けれど、そろそろ魔法も解ける頃。
そんなことを思いながら遠くを魅つめた、
そのときだった。

あっ……。
橋の上に、淡い桃色の光の筋が見えた。
橋と並行するように、細く長く伸びている。
まるで、ピンクの天の川。
なんて美しいのだろう。
その光を魅つめているうちに、
私はふと、自分の人生を思った。

今の私と、いつかの私。
恋する今の私と、まだ見ぬ未来の私。
そして、遠い時代に生きたエカテリーナと、
彼女に憧れ続ける私。
その間には、一本の川が
流れているような気がした。

けれど、その川は、
私たちを隔てるためにあるのではない。
いつか、自分自身の力で橋を架け、
向こう岸へ渡るためにあるのだ。
まだ橋が架かっていないのなら、
自分の足で一歩ずつ進めばいい。

桃色の光の川を、
ひと掻き、ひと掻き。
そのたびに、
小さな星がきらきらと舞い上がる。
そんな美しい一日にしていきたい。

心が美しければ、今日という一日も、
きっと美しいものになるだろう。

やがて、空は少しずつ白へと還り始めた。
群青の名残りを残しながら、
夜と朝が静かに入れ替わっていく。
ぽっかりと広がる、白い余白。

今朝、あれほど探していた星たちは、
とうとう姿を現さなかった。
けれど、もう寂しくはない。
私の心には、
あのピンクの天の川が今も流れている。

そして、その光の向こうには、
いつかの私がいる。
ふと、以前味わった
「余白の贅沢」という言葉が蘇った。

そう。
余白は贅沢。
けれど、贅沢だと感じる心がなければ、
余白はただの空白にすぎない。
何もないところに、
どれほど豊かな世界を見つけられるか。
それは、
自分自身の心に委ねられているのだろう。

今朝、星のない空から始まった旅。
その終わりに、
私は真っ白な心の余白を手にしていた。

この余白には、
今日、どんな景色が描かれるのだろう。
どんな光が舞い降りるのだろう。

そう思うと、
今日という一日が楽しみで仕方がない。

夢から覚め、ようやく地上に舞い降りた。
地に足がつく。
一歩を踏み出す。
キュッ、キュッ、キュッ、キュッ。
いつもの靴音が、朝の街に響いた。

魔法は解けても、ときめきは消えない。
そして、ゼロの旅人は、
今日もまた新しい一歩を踏み出す。

風の向くまま、気の向くまま、
心のまま、ひらめくままに。

いつか、きっと。
その未来へと続く、
私だけの橋を架けながら。

— Morimura