午前3時40分。

まだ夜の帳が深く下りた街へ、飛び出した。
風が冷たい。
いつも歩き始める時間より、ずいぶん早い。

街はまだ深い眠りの中にあるようで、
行き交う人の姿もほとんどない。

今朝は、どうしても星に逢いたかった。
午前1時10分に目覚めてから、
何度もベランダの窓を開け、
夜空を見上げていた。
けれど、空は白い雲に覆われ、
星はひとつも見えなかった。

シリウス。
プロキオン。
ベテルギウス。
冬の大三角を描く、あの星たち。
そしてオリオンの帯と剣。

昨日も、一昨日も、
確かにあの空で輝いていたのに。

そこにあるのに、見えない。
なんだか、
いつもの場所で逢えるはずの人に
逢えなかったような、
少し寂しい気持ちになっていた。

けれど、広い空を見渡せば、
どこかに雲の切れ間があるかもしれない。
そう思って歩き始めたのだった。

最初の建物の切れ間。
立ち止まって空を見上げる。
やっぱり見えない。

次の大きな交差点。
ここなら、もう少し広く空が見渡せる。
けれど、見えるのは群青の世界に重なる
白い雲ばかり。

昨夜、あんなに美しく輝いていた
月の姿もない。
ああ、残念。
でも、なんだか不思議な空。
群青の上に、
うっすらと白い薄衣が
掛けられているように見える。

その奥には、
いつもの深い青が
静かに息づいているはずなのに、
今朝は少し控えめ。

まるで、誰かがそっとベールを
掛けてしまったようだった。
急に冷え込んできたから、
天女が寒さをしのぐために
羽衣をまとったのかしら。

ふふっ。

でも、空全体を覆うほどの羽衣となれば、
天女ひとりでは到底間に合いそうもない。

もしかしたら、
仏さまの薄衣なのかもしれない。

そう思った途端、夜空の表情が少し変わった。

群青の闇に浮かぶ、幾重もの白い衣。
その向こうには、
静かに輝く極楽浄土が
広がっているような気さえしてきた。

なんとも幻想的な世界。
今朝の空は、どこか神々しい。
ふと、お経でも唱えたくなるような
気分になった。

いや、いっそ座禅でも組んでみようか。

冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、
背筋をすっと伸ばす。
そんなことを考えながら歩いていると、
自然と足取りまで軽くなってくる。

それにしても、
上ばかり見て歩くのは危ない。
昨日も足元のビニール袋に、
危うく足を取られそうになったばかり。

空を見上げ、足元を確かめ、
また空を見上げる。
まるで首の上下運動。

ふふっ。

星空観測も、なかなか忙しいものだ。

やがて橋の真ん中へ。
ここなら、空を大きく見渡せる。
私は立ち止まり、ぐるりと一周してみた。

東の空。
南の空。
そして、反対側の空。
うーん。
どこにも星がない。

もう一度、ゆっくりと空を眺める。
先ほどは、
薄い衣をまとっているように思えた雲。
けれど、よく魅ると、
もくもくとした白い雲が
何枚も折り重なっている。

薄衣どころか、なかなか厚い。
これでは星たちも、
ちょっと顔を覗かせる
というわけにはいかないだろう。

もし私に逢いに来ようと思えば、
何枚も何枚も雲の衣を
かき分けなければならない。
なんだか、星たちが少し気の毒になってきた。 

それにしても、この雲。
よく魅れば、ちょっと美味しそうでもある。
群青の空に、もくもくと広がる白い雲。
まるで、
たっぷりとチーズを載せたピザのよう。

私の好きなマルゲリータというより、
四種のチーズのクアトロ・フォルマッジ。
今朝の空は、どうやらチーズ好きらしい。

ふふっ。

星が見えない寂しさを忘れ、
思わず笑ってしまった。

そうして、もう一度、
いつもの星たちが輝いていた場所を魅つめた。

あの建物の少し上。
昨日も一昨日も、
ひときわ明るい星が輝いていた。

その近くには、もうひとつの光。
互いに魅つめ合うように輝く二つの星。
そして、その向こうには冬の大三角。
オリオンの三つ星の帯と、
その下に並ぶ小三つ星の剣。

あの小さな剣を初めて見つけたときの喜び。
オリオン大星雲の淡いもやを
魅つめたときの感動。

ひとつひとつの記憶が、
群青の空に蘇ってきた。
不思議だった。
目の前には、厚い雲しか見えない。
それなのに、
心の中では、
あの星たちがいつもと変わらず輝いている。

以前の私なら、
星が見えなければ、
それで終わりだったかもしれない。

けれど今は違う。
星の名前を知り、
位置を覚え、
その輝きに心を寄せてきた。

そうして積み重ねた記憶が、
見えない星を心の中に描き出してくれる。
目には映らなくても、心には映っている。
そんなことを、
今朝初めて実感したような気がした。

見えるものだけが、そこにあるのではない。
見えなくなったからといって、
消えてしまったわけでもない。
雲の向こうには、今も星たちがいる。

そして私の胸の中には、
昨日までの美しい星空が生き続けている。
そう思うと、
先ほどまで感じていた寂しさが、
少しずつ和らいでいった。

星を見つける喜び。
そして、見えない星を感じる喜び。
同じ夜空を眺めていても、
心の向け方ひとつで、
こんなにも違う世界が広がるものなのか。

冷たい風が、頬を撫でていった。
私はもう一度、
仏さまの薄衣をまとった群青の空を見上げた。
星たちには、とうとう逢えなかった。
けれど、何も見つからなかったわけではない。

星のない空ではなく、星を待つ空。
そんな空があることを知った。
そして、見えない星を心で魅つめるという、
新しい楽しみを見つけた。

さて、もう少し歩いてみよう。
今朝の街は、まだ深い眠りの中。
けれど、この静かな群青の世界には、
まだ何かが隠れているような気がする。

星を探して歩き始めた私。
この先、いったい何に出逢うのだろう。そんな小さな期待を胸に、再び歩き始めた。