そして、扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

琥珀色の灯りが揺れる、ビスカウトクラブ。
深いボルドーのソファに、
柔らかなジャズの調べ。
今宵も私は、
お気に入りのバニースタイルに身を包み、
銀色のトレーを片手に、あなたをお迎えする。

「お待ちしていました。
今夜もお逢いできて嬉しいわ」

あなたの笑顔を見た瞬間、
ふと、遠い日の記憶がよみがえった。

それは、まだ私がこの世界に
足を踏み入れて間もない頃。
寒く、空模様の優れない一日だった。

あの日、私の前に現れたあなたは、
きちんとスーツを着こなした紳士だった。

「今日はちょっと嫌なことがあってね。
誰か一緒に飲んでくれる人を探していたんだ」

そうおっしゃったあなた。
出逢って間もない私に、
残りの時間をすべて預けてくださった。

およそ6時間。
初めてお逢いする方と、
そんなに長い時間を過ごすなんて。
けれど、不思議なことに、
少しも長く感じなかった。

まずは、ビールで乾杯。
カチン。

グラスを合わせる小さな音から、
私たちの物語は始まった。
関西のこと、横浜のこと。
あちらこちらに話題が飛んでは、
また新しい話が生まれる。

あなたのお話は楽しく、
時折見せる優しい笑顔には、
どこか人を安心させる温かさがあった。

最初は嫌なことがあったと
おっしゃっていたのに、
いつしかそんなことも忘れたかのように、
ふたりで笑っていた。

お酒が進み、おしゃべりも弾む。

まるで、昔から知っている人と
久しぶりにデートを楽しんでいるような、
不思議な親しさを感じていた。

ところが、思いがけない出来事が待っていた。
外には雪。
それでも、
ビールとおつまみが欲しくなった私たち。

「じゃあ、買いに行こうか」

そうして向かったのは、近くのローソン。
けれど、傘もない。
どうしましょう。
そこで登場したのが、
あなたのダウンジャケットだった。

なんと、ふたりで頭からすっぽりかぶって、
雪の中へ!
ひとつのダウンを屋根代わりにして、
身体を寄せ合いながら走る。

まるで、子どもの頃に戻ったような、
ちょっと可笑しな大冒険。
雪の冷たさよりも、
ふたりで笑いながら走った楽しさのほうが、
ずっと強く心に残っている。

買ってきたビールとおつまみを広げ、
また乾杯。

今思い返しても、
なんて愉快な夜だったのだろう。
初めて逢ったばかりなのに。
こんなに自然に笑い合えるなんて。
出逢いとは、本当に不思議なものだ。

そして、いよいよお別れの時間。
外は相変わらずの悪天候。
そんな私に、
あなたは一本の折りたたみ傘を
差し出してくださった。

「これ、持って行きな」

それは、美しい空色の傘だった。
雨に濡れないようにと、
さりげなく手渡してくださった優しさ。
その心遣いが、何より嬉しかった。

空色の傘。

今でも、その色を思い浮かべると、
あの日の光景が鮮やかによみがえる。

雪の中を走ったこと。
ビールで乾杯したこと。
取り留めもなく語り合い、笑い合ったこと。
そして、最後にいただいた温かな優しさ。

一本の傘が、こんなにも長く心に残るなんて。
きっと、それは単なる雨具ではなく、
あなたという人の優しさを映した、
小さな贈り物だったからなのだろう。

それから、時が流れた。
長い時間を経て、
再びあなたとお逢いできたとき。
あの空色の傘の記憶も、
一緒によみがえってきた。

そして、再会を重ねるうちに、
私たちはまた、
ゆったりとした時間を
ともに楽しむようになった。

頻繁にお逢いするわけではない。
けれど、だからこそ、
再会の喜びはひとしお。

お逢いすれば、また自然に会話が弾み、
気がつけば長い時間が過ぎている。
あの日のように。
お互いに気負うことなく、
飾ることなく。
ただ、一緒にいることを楽しむ。
そんな関係が、私はとても好きだ。

そして今宵。
ビスカウトクラブの琥珀色の灯りの下で、
あなたをお迎えする。
あの頃の私たちは、ビールで乾杯した。
けれど今夜は、少し趣向を変えて。

「今夜は、
私がハイボールをお作りしましょうか」
グラスに氷を入れる。
カラン、カラン。
琥珀色のお酒を注ぎ、
炭酸の小さな泡が弾ける。

銀色のトレーにグラスを載せて、
あなたのお席へ。

「お待たせしました。今宵の一杯です」

あの日のビールとは、また違う味わい。
けれど、乾杯の向こうにある笑顔は、
きっと変わらない。

人生には、数えきれないほどの出逢いがある。
そのすべてが、心に残るわけではない。
けれど、何げないひと言や、
さりげない優しさが、
長い歳月を超えて輝き続けることがある。

あの雪の日の出逢いが、
今宵の再会へとつながっている。
なんて素敵な巡り合わせなのだろう。

さあ、あなた。
今夜も時間を忘れて、おしゃべりしましょう。
楽しいことも、
ちょっぴり苦いことも。
グラスを傾けながら、心の向くままに。

そして、ふたりだけの新しい思い出を、
またひとつ重ねてゆきましょう。

今夜のお酒には、あの日の雪の香りと、
空色の傘に込められた優しさを、
ほんのひとしずく。
あなたと再び乾杯できる幸せを、
心から嬉しく思っています。

ありがとう、あなた。

そして、今宵も素敵な時間をご一緒に。

今宵もまた、ひとつの物語が、
琥珀色の灯りにそっと包まれた。

— Morimura