街が目を覚ます、その少し前…

地下へ続く入り口の前で、 
私は今日という一日の扉が
開くのを待っている。

お部屋を出て、
今は始発の地下鉄に乗るため、
入り口のシャッターが開くのを
待っているところだ。

お店にお部屋の鍵を返しに
行かなければならないので、
どうしても少し待ち時間ができてしまう。

普段の私は待つことがあまり好きではない。
けれど、この時間だけはなぜか好きなのだ。

ちょうど今頃が、
一番心地よい季節なのかもしれない。
空は少しずつ明るくなり、
あたり一面の景色も、
はっきりと見えるようになってきた。

昨夜は、昼間の蒸し暑さを
そのまま抱え込んだような空気で、
息苦しくなりそうだった。

今朝も少し生ぬるさは残っているけれど、
それでも朝特有の清々しさがあり、
肌に触れる空気が気持ちいい。

ピチュピチュと鳴く鳥の声。
さやさやと揺れる木々のささやき。
そして、ときどき通り過ぎる車のエンジン音。
まだ完全には目覚めきっていない街の中で、
人々はそれぞれの一日を、
少しずつ動かし始めている。

そんな風景を眺めながら、
私も心の中で自分に声をかける。
「今日も一日、しっかり動こう」
「手際よく、ひとつずつ、
漏れのないように進めよう」

今日は帰ってからも 
予定を詰め込みすぎていて、
きっと忙しい一日になる。

それでも、慌てず、流れを乱さず、
ひとつずつ軽やかに
乗り切っていきたいと思う。

やがてシャッターが上がり、
地下へ続く道が開けば、
街も私も本格的に動き始める。

それまでは、
鳥の声と朝の風に身を委ねながら、
まだ誰のものでもない静かな時間を、
もう少しだけ味わっていよう。

シャッターが開き、駅員さんが姿を現した。
止まっていた朝が、静かに動き始めた。

駅員さんと一緒にエレベーターへ乗り込むと、
同乗していたおじさんから声をかけられた。
どうやら、時々私の姿を見かけているらしい。

「今日はこれから帰るんです」そう伝えると、
駅員さんは最後に、
「お気をつけてお帰りください」と、
優しく声をかけてくれた。

たったひと言。
けれど、まだ目覚めきらない
早朝の街で受け取ったその言葉は、
思いがけないほど温かく、
胸の奥にじんわりと染み込んだ。
嬉しかった。

シャッターが開いたのは、
地下へ続く入り口だけでは
なかったのかもしれない。

人の優しさに触れたことで、
今日という一日へ向かう私の心まで、
そっと開かれたような気がした。

始発の駅に残る静けさと、
やわらかな言葉の余韻を連れて、
私はゆっくりと帰路についた。