心のサンクチュアリーに、
限りなく透明に近いブルースカイを
そっとしまい、
私は今日一日の物語を歩き始めた。

風が気持ちいい。
じわりと汗ばんだ身体を、
海からやってきた風が優しく冷ましてくれる。

今朝もまた、日記の文章が
長くなりすぎてしまった。
昨日のことを思い出して、
ずいぶん気をつけたつもりだったのに、
あともう一息だった。

タイトルにも、画像にもこだわった。
大桟橋の、
ベンチとは呼べないような
横たわったポールに腰を下ろし、
眩しい太陽をまともに浴びながら、
しばらく言葉と格闘していた。

お尻は痛い。
暑い。
身体はほてり、じわじわと汗が滲んでくる。
それでも、ようやく書き終えた。
ああ、気持ちいい。
ひとつのことをやりきったあとの、
この感覚が好きだ。

ほてった身体を風が冷まし、
眩しい太陽と美しい空、輝く海が、
今度は心を癒してくれる。
こんな景色の中を、
一日中歩いてみたいと思った。

心に響いた風景を拾い、
心に響いた感覚を言葉にして、
また歩く。
時間を気にせず、
そんなふうに一日を過ごしてみたい。
いつか、そんな一日を作ってみよう。

大桟橋を戻り始めた。
行きは緩やかな上りだった道が、
帰りは緩やかな下りになる。
時刻は7:07。
ずいぶん、さまよった。
足も。
心も。
頭の中も。
でも、ようやく今朝の着地点を見つけた。

だからここからは、
今日という未来へ、一歩ずつ進んでいこう。

次に目指すのは、パン屋さん。
もしかしたら今日も、
素敵な音楽に巡り逢えるかもしれない。
そんな小さな期待を胸に、
街へ戻った。

車が増え、人も増えていた。
街がゆっくり動き始めている。
広い歩道には街路樹が並び、
建物の陰にできた木陰へ風が流れ込んでいた。木々の隙間から見える青い空。
青と緑のコントラスト。
鳥の声。
あまりにも気持ちよくて、帽子を取った。

この木は何だろう。
気になって調べると、ケヤキだった。
昨日、ほんの5分だけ、
おにぎりを食べながら
小さなピクニックをした時間を思い出した。
今度はここで朝ごはんを食べてみようか。
空を魅て、
木々を魅て、
足元をポッポッポと歩く鳥を魅て、
その声を聞きながら。
そんな朝もきっと楽しい。

ふと周りを見ると、
今まで気づかなかった
人の暮らしも見えてきた。
カフェでは外国人のカップルが
朝食をとっている。
別のテーブルでは、
おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、
そしてお孫さんらしき家族が、
一つのテーブルを囲んで
楽しそうに話していた。

それぞれの朝。
それぞれの暮らし。
それぞれの温もり。
今朝は、そんなものまでよく見える。

堅い建物に囲まれた街なのに、
その真ん中で、
こんなにも柔らかな気持ちになっている
自分が、なんだか少し面白かった。

イチョウの木も見つけた。
この葉だけは、子どもの頃から知っている。
そして私は、その木になる銀杏が大好きだ。
知らないものに出逢えば調べる。
すると、自分の中にまた一つ、
小さな引き出しが増える。

でも、ふと思った。
引き出しは、
増やすだけではいけないのかもしれない。
ときには立ち止まって、
中に入っているものを整理する。
数を増やすだけではなく、
必要なときに取り出せるように整えて、
中身をもっと濃いものにしていく。
そんな時間も必要なのだろう。

ようやく地下へ続く入口が見えてきた。
すると風さんたちが、
いっせいに私の周りへ集まってきた。
地下へ入る私を見送るために、
ここでお別れの挨拶を
してくれているみたいだった。
「行ってくるね」そう言って、地下へ降りた。

ピアノの前を通った。
誰もいなかった。
ほんの少し、心に穴が開いたような気がした。
今日は、音楽に巡り逢えなかった。

7:30。
パン屋さんへ入った。
並んでいるパンを、
今日はいつもよりゆっくり眺めた。
今まで気づかなかったパンもある。
これも食べてみたい。
あれも気になる。
でも、一度に全部ではなくていい。
明日もある。
その次の日もある。
少しずつ、少しずつ楽しめばいい。

パンを買い、帰り道に、
もう一度ピアノの前を通った。
やっぱり、誰もいない。
静かなピアノだけが、そこに佇んでいた。

でも、そのときだった。
『夏は来ぬ』
『アリラン』
そして昨日巡り逢った『HANABI』
もう一回。
もう一回。
誰も弾いていないはずなのに、
三つのメロディーが、
私の心の中から静かに流れ始めた。

音楽は、演奏が終わったら
消えてしまうものではないのかもしれない。
あの日、あの場所で受け取った音は、
ちゃんと私の心の中にしまわれている。
そう思った瞬間、
さっき開いた小さな穴が、
すーっと埋まっていった。

地下から続く階段を上る。
一段。
また一段。
そして階段を上り終えると、
目の前に光が広がった。
その瞬間、
ふと胎内巡りをしたときのことを思い出した。
五感を研ぎ澄ませながら暗闇を歩き、
ようやく外の光を見つけた、あの瞬間。
あのときの感動と、どこか似ていた。

そして光の中には、風さんがいた。
私を待っていてくれたみたいに、
すぐに駆け寄ってきた。
「どうだった? 素敵な曲、聴けた?」
「ううん。今日は誰もいなかった」
少しだけ間を置いて、私は笑った。

「でもね、私の心にしまっておいた
音楽が流れていたわ。あなたにも聞こえた?」
風さんが、私の耳の周りをくるりと回った。
そして今度は、心の周りをくるりと回った。
どうやら風さんにも聞こえていたらしい。
誰も弾いていないピアノから流れてきた、
私の心の中のメロディーが。