部屋を出ると、風が冷たかった。
二つの木の葉がわずかに揺れ、
「行ってらっしゃい」と
送り出してくれているようだった。
見上げた私の小さな空には、何もなかった。
ただ薄い白色が、
キャンバスいっぱいに塗られていた。
まるで昨日、鮮やかに描いた
いろんな色の上から、
白い絵の具を重ねて、
すべてを最初に戻したみたいだった。
また今日という一日に、
新しい色を描くための白。
けれど、何にも描けない。
頭も、心も、体も、ぼやーっとしていた。
昨夜は、
よく飲み、よく食べ、よく語り、よく笑った。
心は思いっきり解き放たれ、
満たされたのに、
どうやら体のほうは
まだ昨夜を終えられていないらしい。
左へふらふら。
右へふらふら。
おっとっと。
馬車道を歩く私は、まさしく千鳥足だった。
それでも足は海へ向かっていた。
今日が横浜で歩く
最後の朝だということだけは、
ぼんやりした頭のどこかが
ちゃんと覚えていた。
やがて、サルスベリの花が目に入った。
小さなピンクの花が集まって、
まるで丸いマイクのようだった。
私はそこへ向かって、
「ああ、今日はダメだわ」と話しかけた。
すると風に揺れる枝が、
うん、うん、と縦に揺れた。
何にも感じなくてもいい。
ぼやっとしていてもいい。
千鳥足でもいい。
そんな今朝の私を、
そのまま肯定してくれているようだった。
海へ着いても、心は動かなかった。
白いキャンバスには
薄墨色のモヤが広がっていた。
もし薄墨の筆ペンを持っていたなら、
そこへ私はきっと四文字を書いただろう。
自業自得。
今週はよく飲み、よく食べた。
心は満たされたけれど、
お腹は満たされすぎて悲鳴を上げている。
風さんにも
「ほどほどに、という言葉があるでしょう」
と呆れられた。
ごもっとも。
それでも歩いた。
すると、
何にも反応しなかった心が一本の木にだけ、
ピクリと動いた。
春に淡いピンクの花を咲かせていた、
懐かしいモモの木だった。
そして薄紫色の横浜ロータス。
雨に潤った木々。
帰り道には、淡いピンクのサルスベリ。
また、うん、うん。
今度は少し、その意味がわかった気がした。
モヤがあっても、うん。
胃が重くても、うん。
自業自得でも、うん。
消そうと焦らなくていい。
今の自分をそのまま背負って、
時の流れに身を任せて歩けばいい。
そうしてゴールへ着いた。
クールダウンのストレッチをして、
大きく深呼吸。
そして、もう一度、私の小さな空を見上げた。
あら。
真っ白だった。
途中まであんなに浮かんでいた
薄墨色のモヤが、どこにもない。
朝と同じ白いキャンバス。
でも、同じ白ではなかった。
朝の白は、何にも描けない白。
今ここにある白は、
これから何色でも描ける白。
モヤを必死に追い払ったわけではない。
モヤを抱えたまま、一歩ずつ歩いただけ。
そうしたら、
いつの間にかモヤのほうがいなくなっていた。
サルスベリの言っていたことは、
これだったのかもしれない。
うん、うん。
そのままでいい。
それでも前へ歩いていけばいい。
真っ白に戻ったキャンバスを見上げた。
さあ、今日という一日には、
これから何色が描かれていくのだろう。
うん、うん。白に戻る朝✨
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