町家を改装した、行きつけの店がある。
いつから通っているのだろう。
たしか、まだこの店が
できたばかりの頃からだったと思う。
間口は狭く、奥へ進むと空間が広がり、
その先には小さな坪庭がある。
会社関係の宴会ならお座敷へ。
でも二人、三人で訪れるときには、
私にはいつもの指定席があった。
カウンターのいちばん奥。
椅子ではなく、
掘りごたつのように足を下ろして座る席だ。
この和の佇まいが、なんとも好きだった。
そしてこの店には、
私が勝手に「お酒のソムリエさん」
と呼んでいる人がいる。
和食好きの私は、
ビールのあとはたいてい日本酒。
けれど全国から集まった地酒を眺めても、
飲んだことのないものはわからない。
だから、いつもお任せ。
料理と私の好みを見ながら
選んでくれる彼のおすすめに、
外れはなかった。
酒器も楽しい。
少し変わった形の器がたくさんあって、
お酒が変われば器も変わる。
ざるに盛られた小さなお猪口から、
自分でひとつを選ぶ。
そして私は、この店でひとつ学んだ。
遠慮して小さなお猪口を選ぶと、
かえって何杯飲んだかわからなくなる。
そんなことまで含めて、
長い付き合いになった店だった。
仕事で長いお付き合いのある方と、
久しぶりに二人で訪れることになった。
せっかくなら食べたいものを
お願いしておこう。
大きな鮑のステーキが食べたい。
以前、出張先のお寿司屋さんで
初めて食べて感動した、
のどぐろの炙りも食べたい。
せっかくだから塩焼きも。
鱧も食べたい。
そして調子に乗った私は、
「鰻の蒲焼きも食べたい」とまで言った。
「わかりました。ちゃんと揃えておきますよ」
その言葉だけで、
当日が待ち遠しくなった。
そして迎えた夜。
まず運ばれてきたのは、
この店らしい美しい突き出しだった。
細長い器の上に、
旬のものが少しずつ、
ちょこちょこと並んでいる。
私はいつも、この料理を
「おいしそう」より先に「美しい」と思う。
わあ。
思わずため息が漏れる。
ひとつひとつの説明を聞いているうちに、
舌より先に心が食事を始めてしまう。
やがて、お願いしていた料理が
次々と運ばれてきた。
のどぐろ、鱧、鮑、そして鰻。
その合間を縫うように、
お酒のソムリエさんが
料理に合わせた日本酒を出してくれる。
一本、また一本。
説明を聞きながら飲んでいると、
そのときは銘柄を
しっかり覚えているつもりなのに、
帰る頃にはたいてい忘れてしまう。
けれど、その中に一本だけ、
ずっと心に残ったお酒があった。
鮮やかな赤。
日本酒とは思えないほど目を惹く、
透き通った赤いボトル。
新政 No.6 A-type 2024。
あとになって知ったのだけれど、
これがまた面白いお酒だった。
No.6という名を持ち、
6月6日の「新政の日」に現れ、
精米歩合も66%。
まるで「6」という数字が、
この一本の中へ
何度も遊びに来ているみたいだった。
だからなのだろうか。
名前をきちんと覚えていなかった
私の記憶にも、
あの大きな「6」だけは、
鮮やかな赤と一緒に残っていた。
覚えていたのは名前ではなかった。
赤いボトルと、大きな6のロゴと、あの透明な味わいだった。
一口飲んだ。
すうっと入ってきた。
力強く「私は日本酒です」と
主張するのではなく、
するりと喉を通り、
そのまま身体の中へ
染み込んでいくようだった。
芳醇なのに、すっきりしている。
華やかなのに、どこか透明。
口の中で味わいが、ふわっと花開く。
隣へ顔を向けた。
「このお酒、おいしいですね」
「そうですね。すごくおいしいですね」
料理を味わい、
日本酒を味わい、
仕事の話をする。
ワインなら「マリアージュ」というのだろう。
でもあの夜は、
料理と日本酒だけでは
なかったような気がする。
料理と酒。
酒と会話。
会話と時間。
そのすべてが、
ひとつのテーブルの上で静かに溶け合っていた。
気づけば、
目の前に置いてもらった赤いボトルは、
空になっていたように思う。
おいしかった。
けれど今振り返ると、
「あれが今までで一番おいしい日本酒だった」
と言うのは、少し違う。
私が今まで出逢った中で、
一番素敵な日本酒だった。
そう言いたい。
鮮やかな赤いボトル。
その色とは対照的なほど、
透明感のある味わい。
飲んでいるというより、
なぜだか私の中へすっと入ってきて、
私と同化してしまうような
不思議な感覚があった。
だから、また飲みたい。
味をもう一度確かめたいからではない。
あの赤い六番に、
もう一度逢ってみたいから。
もっとも――。
あの夜、ひとつだけ心残りがある。
思いっきり食べようと楽しみにしていた、
大きな鮑のステーキ。
あまりにおいしかったからなのか、
気がつけばほとんど
隣の方に食べられてしまったような気がする。
赤い六番の余韻は、
今もこんなに鮮明なのに。
鮑だけは、今も少し悔しい。
日本酒の細道。
どうやらこの道には、
忘れられない一本だけでなく、
食べ損ねた鮑まで転がっているらしい。
だからまた、
続きを歩きたくなるのかもしれない。
日本酒の細道 赤い六番と、私の指定席🍶
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