夕暮れ時の赤銅色の空に朱雀を魅て、
私は待機所へ戻った。

メイクを直し、
晩ごはんのおにぎりを食べようとしたとき、
ふと時刻が気になった。
もう19:00になろうとしていた。
お客様とお別れしたのが18:00頃だったから、
あの場所で日記を書きながら
風さんと戯れているうちに、
いつの間にか一時間ほどが
過ぎていたことになる。

一時間。
そう考えると、
ずいぶん長い時間のようにも思える。
けれど、私にとってその一時間は、
少しも惜しい時間ではなかった。
むしろ、とても満たされた、
有意義な時間だった。

始まりは、ふと見上げた空だった。
ビルとビルの間に切り取られた小さな空が、
あまりにも美しかった。
赤銅色と薄いグレーが
交互に重なる幻想的な夕空。
その中を、
一羽の大きな鳥のような濃い雲が
ゆっくりと動いていた。

翼には赤銅色の光がまとわりつき、
今にも空高く羽ばたいていきそうだった。
その姿を魅た瞬間、
私の頭の中で、
いくつものイメージが駆け巡った。
孔雀?
いや、もっと燃えるような鳥。
火の鳥?
でも、そんな激しい炎のような光ではない。
もっと神秘的な何か。
伝説の鳥……。
そうだ。
朱雀。

孔雀から始まり、
燃えるような鳥、
火の鳥、
そして朱雀へ。
言葉にすれば
少し時間がかかったように見えるけれど、
その思考はほんの一瞬だった。

そして、
その「朱雀」という名前に
たどり着いた瞬間、
私の心は遠い記憶へ飛んだ。

『太王四神記』
朱雀、玄武、青龍、白虎。
昔、夢中になって観ていた、
神話の世界のような壮大な物語。
四神の名前も、
その不思議な存在感も、
私はずっと覚えていた。

夕空をきっかけに、
長い間、
心のどこかにしまわれていた記憶が、
突然光を浴びて
浮かび上がったのだと思う。

けれど、朱雀が連れてきたのは、
遠い昔の記憶だけではなかった。
もうひとつ、
もっと最近の記憶が目を覚ました。

ジグザグ中華街。
朝のウォーキングで中華街を歩いていた頃、
朱雀門を見るたびに、
玄武門をくぐって中華街をあとにするたびに、
私は『太王四神記』を思い出していた。

「あ、四神と同じ名前だ」
その程度のことは思っていた。
けれど当時の私は、
なぜ同じ名前なのだろう。
青龍や白虎にまつわる門もあるのだろうか。
そこまでは思いを巡らせていなかった。

ところが今日、
夕空に朱雀を魅たことで、
点のようにしまわれていた記憶が、
ひとつずつ線でつながっていった。

東を守護する青龍。
南を守護する朱雀。
西を守護する白虎。
北を守護する玄武。
四神の世界観が、
中華街そのものの方角に
重ねられていたことを知った。

それを知った瞬間、
これまで何気なく目にしていた門の記憶に、
新しい価値が加わったような気がした。
また中華街を歩いてみたい。
今度は、ただ道をジグザグに歩くのではなく、
四神の存在を感じながら歩いてみたい。

東では青龍の青を。
南では朱雀の赤を。
西では白虎の白を。
北では玄武の奥深い黒を。
そして、その間を流れる風を感じながら。

同じ街を歩いても、
知っていることがひとつ増えるだけで、
魅える風景はきっと変わる。
過去の記憶も同じなのかもしれない。

一度しまわれた記憶は、
そのまま眠り続けるわけではない。
今日のように何かのきっかけで目を覚まし、
新しい記憶と結びついたとき、
そこにまた新しい価値が加わっていく。

青龍は青く。
朱雀は赤く。
白虎は白く。
玄武は深い黒に。
私の中にある記憶もまた、
それぞれの色をまといながら、
心のどこかで静かに
輝いているのかもしれない。

そして、私はもうひとつ気づいた。
もしあのとき、
鳥のような雲を魅た瞬間に、
「ただの雲だ」と決めてしまっていたら、
この心の旅は始まらなかった。

孔雀かな。
火の鳥かな。
いや、もっと違う。
そうやって、すぐに答えを決めず、
雲の形を遊ばせる
余白が心の中にあったからこそ、
遠い記憶まで
入り込むことができたのだと思う。

それは、朝のウォーキングの中で
少しずつ見つけてきた、
私の「心の余白」だったのかもしれない。

私は今日、朱雀を思い出したのではない。
夕空の中で、もう一度朱雀に逢ったのだ。
赤銅色の翼をまとった朱雀に導かれ、
私は遠い昔へ行き、
最近の中華街へ戻り、
そしてまた今日の自分へ帰ってきた。

時計の上では、たった一時間。
けれど、その一時間の中で、
私の心はずいぶん遠くまで旅をしていた。
そして旅を終えた今、
心の中には、
新しい色をまとった記憶が
いくつも残っている。

それはきっと、何かを急いで決めつけず、
心に余白を残していたから出逢えたもの。
私にとってこの一時間は、
日記を書いていた時間ではなかった。
風さんと戯れ、
夕空を魅て、
記憶の中を歩き、
そしてまた今へ戻ってくる――

満たされた思いでいっぱいの、
一時間の心の旅だった。