赤レンガ倉庫まで来ると、
広い空が目の前いっぱいに広がった。

今朝の空は、黙っていた。
白をほんの少し溶かしたような薄暗いグレー。
凹凸もなく、
ただ、一色に塗られているように見える。

けれど、じっと魅ていると、
その奥に濃淡の違う雲が
うっすらと浮かんできた。
「あ、北海道がある」
細長く伸びた雲は日本地図のようだった。

「あれが九州。あれが四国。
じゃあ横浜は、このあたりかな」
そんなことを考えているうちに、
日本地図は形を変え、
また大きなグレーの中へ溶けていった。
まるで256段階のグレースケール。
華やかな色など何ひとつないのに、
なんとも味わい深い。

本当は雨なんて
降らせたくないのかもしれない。
こんな大風も
起こしたくないのかもしれない。
けれど自然には自然の営みがある。
だから今朝の空は、
何も言わず、ただ黙っているのだろうか。

海へ出ると、風はさらに強くなった。
水面は大きく揺れ、
雨粒がそこかしこへ落ちている。
ポツリ。
またポツリ。
ひとつ生まれては消え、
その隣にまた新しい波紋が生まれる。

これは、誰の心模様なのだろう。
この海は長い時の流れの中で、
いったいどれほどの人を
映してきたのだろう。
嬉しかった人。
泣いていた人。
何かを決めた人。
誰かを想いながら、
ただ黙って海を魅ていた人。
その人たちの心も、
こんなふうにひとつの波紋となって、
この水面のどこかに
残っているのかもしれない。

そう思ったら、少し嬉しくなった。
いつか何年、何十年という時が過ぎたあと。
今朝ここを歩いている私の心模様も、
小さな波紋となって
未来のこの海に広がっているのだろうか。

知らなかったこの街を毎朝歩き、
空を魅て、
風さんと話し、
木々に名前をつけ、
海に心を重ねた私がいたこと。
その足跡がほんの少しでも、
この水面に残っていたらいいな。

雨と風はますます激しくなった。
傘は何度も煽られ、
雨粒が真正面から打ちつけてくる。
寒くなって、少し歩く速度を上げた。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
濡れた路面を蹴るたび、
いつもとは違う音がする。
その音に背中を押されるように、
私は雨の中を進んでいった。

そして、ふと気づいた。
ずっと傘を叩いていた雨音。
ポツ、ポツ、ポツ。
さっきまでただの雨音だったはずなのに、
いつの間にか旋律になっている。
激しくなったり、静かになったり。
遠ざかったかと思えば、また戻ってくる。
どこかで聞いたことのある音。

ずっとずっと昔に。
まだ私が小さかった頃に。
雨粒がひとつ、傘に落ちた。
ポツリ。
その音が心のずっと奥へ落ちていく。
そして、静かな波紋が広がった。
その波紋の向こうから、
懐かしいピアノの音が聞こえてきた。

――『乙女の祈り』。
長いあいだ心の奥にしまわれていた扉が、
雨音にそっと、開かれようとしていた。