お客様とお別れして、お部屋を出た。
けれど、なぜか後ろ髪を引かれる。
バッグの中を確かめると――
やっぱり。
ちゃっかりスマホを忘れていた。
もう一度ノックして、
「ごめんなさい」
と受け取った。
以前にも同じことがあった。

その時はしばらく経ってから気づき、
お部屋がわからなくなってかなり焦った。
あの記憶が、私を振り向かせてくれたのかな。
それとも、先ほどいただいた
「強運」のお裾分けが、
もう効いたのかしら。

次のホテルへ向かう車を待ちながら、
雨の横浜を眺める。
車は楽だけれど、
乗り降りするたびに濡れてしまう。
雨の日は、やっぱり嫌やよね。

濡れて冷えた身体を、
先ほどあなたに温めていただいた。
そしてまた雨に濡れて冷たくなる。
今夜はそんなことを繰り返している。
足元には激しい雨が落ち、
大きな波紋がいくつも広がっていた。

そして気づく。
このホテルは、
いつものウォーキングコースの途中。
今朝しばらく眺めていた、
中華街の玄武門のすぐ近くだった。
朝の記憶。
少し前の記憶。

そして、今。
さらに今夜、
心に蘇った川と緑と山に囲まれた懐かしい旅館。離れていたはずの風景が、
ひとつずつ光を浴びながら
横浜の夜につながっていく。
まるで雨の波紋のように。

ひとつ広がれば、またひとつ。
私の心の奥へ染み込んでいった。

そして、最後のドアへ。
エレベーターホールまで
迎えに来てくださったあなた。

お聞きしていた服装、片手にはバスタオル。
すっと背筋を伸ばして歩いてくる。
声をかけようとして――
困った。
お名前をど忘れしてしまった。

私の前を通り過ぎたあなたが、
ふと気配を感じて振り返る。
お名前、忘れてしまった。
覚えているのは、私が森村ということだけ。
するとあなたは、
「森村さん?」
と。

その姿勢を見た時から、
ただものではないと思っていた。
そして、やっぱり。
鍛えられた美しい筋肉を目の前にして、
思わず筋肉の話になってしまった。
胸の筋肉をぐっと動かして
見せてくださったあなたに、
「テレビでは観たことあるけど、
実物を見るの初めて」
と感激する私。

まるで筋肉王子。
その鍛えられた身体に、
優しく、愛おしく触れていく。
たくましい腕と胸に抱かれながら感じたのは、
筋肉の美しさだけではなかった。
爽やかさ。
ひたむきさ。
まっすぐ筋の通った心。
そして優しさ。
何よりあなたから伝わってきたのは、
温かさというより、熱量だった。

するとまた、遠い記憶がひとつ浮かんできた。
以前、トレーニングにはまり、
筋トレに夢中になっていた頃の私。

今夜はいったい、
いくつの記憶が目を覚ましたのだろう。
「また横浜に来る時は、
お声をかけてくださいね」
そう言ってあなたとお別れした。

外へ出れば、まだ激しい雨。
でも私の心は、
もう明日の空へ向かっていた。
明日は荒れるらしい。
ウォーキング、できるかしら。
もちろん、
今夜あなたからいただいた熱量を
胸に抱いたまま。

「風さん、今日のお仕事、終わったわ」
今日はたくさんの温もりを
もらったような気がする。
そして最後のドアでは、
熱量をもらった。
雨はこんなにも冷たいのに、
私の中には温かなものがいっぱい残っている。

今夜、雨が広げたたくさんの波紋は、
過去の記憶をひとつずつ現在へ運んできた。
そしてその最後の波紋が、
もう明日の私に触れようとしている。
私、もしかしたら明日は、
すごくパワフルになっているかもしれない。