大さん橋に入ると、風さんが頬を撫でた。
「ありがとう。
ちょうど胸が熱くなっていたところ」
今朝はずっと心が弾んでいた。
昨日拾ったたくさんの美しい風景が、
まだ胸の中でうごめいている。
けれど、その片隅にはひとつだけ、
少し濃いグレーが残っていた。
昨日、心を乱す出来事があった。
腹を立て、自問自答を繰り返し、
どうすればいいのだろうと考えた。
できることはした。
それでも、自分には変えられないものがある。
そのとき、
遠い記憶からひとつの言葉が戻ってきた。
明らめる。
昔、高野山の小さな尼寺で聞いた言葉だった。
物事を明らかにする。
自分にできることを考える。
できることはする。
それでもどうにもならないところまで来たら、
明らめる。
あの日はただ心に残った言葉だったのに、
長い年月を越えて、
今朝ようやく私の中で息をし始めた。
若い頃の私は、
嫌なものから離れることで自分を守ろうとした。やがて、壁なら乗り越えようと思った。
それからは、
相手との着地点を探すようになった。
でも今は、もうひとつの歩き方を知った。
乗り越えなくてもいい。
すべてに答えを出さなくてもいい。
自分の課題ではないものまで、
抱えて歩かなくていい。
明らかにして、
明らめて、
そっと手放せばいい。
心のサンクチュアリーに、
霧に包まれた高野山が浮かんだ。
静かな杉木立。
濡れた石畳。
長い時を抱いた山の空気。
昨日から心の隅にこびりついていたものが、
雨に溶けて流れていく。
心に響いた美しい風景は残った。
養分になるものも残った。
流れていったのは、
もう抱えていなくていい心のカスだけだった。
ふっと、胸の中が広くなった。
そうか。手放すということは、
何かに負けることではない。
これから出逢う風景のために、
心に余白をつくることなのだ。
薄いグレーの空を見上げた。
あの少し濃かった雲も、
いつの間にか輪郭を失い始めている。
雫がひとつ、足元に落ちた。
小さな波紋を残して、静かにほどけていった。
雫、心を明らむ💧
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