帰り道、街はもうすっかり動き始めていた。

行き交う人。
走り抜ける車。
電車も、バスも、
それぞれの場所へ向かっている。

いつもの私は、
まだ静まり返った街で、
ひと足先に一日の物語を始める。

けれど今朝は違った。
みんながそれぞれの今日へ向かう、
その大きな流れの中に私もいる。

街が動いている。
人が動いている。
そして私も、
今日という一日へ動いている。

いつもの道を折り返した頃、雨が止んだ。
ふと顔を上げると、
濡れた街路樹の小道が、
息をのむほど美しく輝いていた。

雨をまとった葉の静かな艶。
濡れた路面の深い色。
そこへ雲の向こうから朝の光が差し込み、
雫のひとつひとつに触れていく。
雨がくれた輝きと、
光がくれた輝き。
どちらか一つでは生まれなかった二つの光が、
目の前で静かに溶け合っていた。

まっすぐ続く緑の道。
遠くへ行くほど木々は少しずつ近づき、
道は細くなっていく。
そのいちばん奥。
木々の隙間に、
指で測ればほんの1センチほどの
小さな空が見えた。

あそこまで歩こう。
なぜだか、そう思った。
あの小さな隙間の向こうに、
今日という一日が待っているような気がした。

今朝、私は4時半より前だと思って
目を覚ました。
時計を見れば6時。
それなのに、自分を責めなかった。
体が眠りたいだけ眠り、
心と体の赴くままに歩き出した朝だった。

だから出逢えた。
いつもとは違う街の音。
初めて見上げた木。
足元に広がる波紋。
雨の中から蘇った記憶。
そして、手放すことで生まれた心の余白。

余白とは、何もない場所ではない。
「まだまだ感じていいよ」
そう言いながら、
次の風景を待ってくれている場所なのだ。

濡れた葉から、雫がひとつ落ちた。
朝の光をいっぱいに抱きしめて、
きらりと輝きながらほどけていく。

私の心にも、また新しい余白ができた。
今日もここに、たくさんの風景を宿そう。
その一つひとつを養分にして、
心の芯を、心の根を、
もっと深く、もっとしなやかに育てていこう。

そう思いながら、
私は小さな空の向こうへ歩いていった。

今日という物語は、
もう始まっている。