待合所に戻った。
もう帰り支度は済ませたから、
残った時間は外の空気を吸いながら、
最後のドアを思い出し、
日記を書いた。

そして、それから今。
今日一日の私の物語を閉じようとしている。

今日は昨日に比べると、本当に暖かい。
心地よい風が、
まだ胸の奥に残っている熱い思いを、
少しずつ冷ましてくれているようだった。

この暖かさのせいだろうか。
それとも、雨がやんだからだろうか。
街の明かりが、
昨日より煌々と輝いているように見える。

耳を澄ませば、
まだいろんな音が聞こえてくる。
街に点々と浮かぶネオンの明かりまで、
その色ごとに違う音を奏でているようだった。
赤には赤の、青には青の、
白には白の響きがある。
光なのに、なぜか聴こえる。

その輝きすべてが重なって、
今夜の街は大きなひとつの夜の調べを
奏でているようだった。

長い一日が終わろうとしている。

今日の私は、
いつもよりずっとたくさんのものを、
耳だけではない何かで
聴いていたような気がする。

雨粒が残した小さな気配も、
心がふっと動いた瞬間も、
誰かの優しさも、
胸の奥に生まれたときめきも。
形のないものほど、
今日は不思議なくらい鮮明だった。

朝には、心に落ちてくる小さなしずくを
ひとつひとつ受け取るように
歩いていた私がいた。
そのしずくは、いつの間にか
心の奥へ染み込み、
私の中にある余白を
静かに潤していたのだと思う。

だから今日は、
何かを追いかけなくてもよかった。
嬉しいときには嬉しいままに。
眠りたいときには眠りに身を預け、
心が弾めば、その弾む音をそのまま楽しむ。

水が形を決めずに流れていくように、
私も今日という時間の中を流れていた。
そうして流れているうちに、
人の温もりも、
言葉も、
笑顔も、
風さんも、
みんな自然に私の心へ入ってきた。

そして夜。
最後に残ったのは、やっぱり「音」だった。
言葉が弾む音。
心が重なる音。
胸の奥まで届いてきた旋律。

でも今思えば、
それは最後のドアの中だけで
生まれたものではなかったのかもしれない。
今日一日、
私の心の中ではずっと、
小さな音楽が流れていた。

朝にはまだ一音だったものが、
いろんな感動や記憶に触れるたびに
音を増やし、
夜になってようやく、ひとつの曲になった。
そして今、風さんがその最後の音を
そっとさらっていく。

私の今日一日の物語も、
最終章のページになった。

街はまだ眠っていない。
ネオンは輝き、
人の声が遠くを流れ、
車の音が夜の向こうへ消えていく。

けれど私の中では、
今日という曲が
少しずつ静かな余韻へと変わり始めている。

不思議だな。
朝、心に受け取った小さなしずくが、
こんな夜の調べになるなんて。
明日になれば、
また違う光が見えて、
違う音が聞こえるのだろう。

だから今夜は、
今日奏でられたこの曲を
無理に終わらせなくてもいい。
余韻のまま、心の中へ置いておこう。

風さん。
今日も一緒に歩いてくれてありがとう。
今夜はその風に、
今日の最後の一音を預けよう。
そして私は、静かにページへ手をかける。

最後のページはどう書き記そうか。

そう思いながら、もう一度、
夜の街へ耳を澄ませた。
答えは、言葉より先に聞こえてきた。

雨上がりの街の音。
風さんが運んでくる音。
そして、今日という一日を歩いた私の心の音。

どれかひとつではない。
すべてが重なって、
今夜だけの調べになっている。

ならば、最後のページには
何も足さなくてもいいのかもしれない。
今日、心に落ちてきたしずくも、
胸を満たした温もりも、
最後に響いた旋律も、
すべてこの夜の調べの中にある。

私はただ、
その音を心に残して、
そっとページを閉じよう。
明日の朝、
また新しい一音に出逢えることを
楽しみにしながら。