馬車道の広い歩道は、
雨に濡れて光っていた。
沿道に並ぶ店やホテル。
まだ夜の気配を残した街に、
ぼんやりと街灯が灯っている。
濡れた路面にその光が滲み、
ふわり、ふわりと浮かんでは揺れる。
なんだか幽玄な世界を歩いているみたい。
そう思った瞬間、遠い記憶が蘇った。
紅葉のライトアップ。
整理券を手に寒い中を並ぶほどの人だった。
きっと辺りはざわざわしていたはずなのに、
一歩その世界へ足を踏み入れた途端、
私の耳からすべての音が消えた。
暗がりの中、照明を浴びて浮かび上がる紅葉。
池の水面には、その姿がぼわっと映っていた。
美しい。
怪しいまでに美しい。
怪しいまでに荘厳で、
怪しいまでに幽玄な世界。
あの夜も、
濡れるか濡れないかわからないほどの
細かな雨が降っていた。
誰と行ったのだったかな。
なぜか思い出せない。
でも、温かな手があった。
誰かが隣にいて、私の手を握っていた。
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ。
傘3号を弾く雨粒が、私を今朝へ連れ戻した。
海が近づくにつれ、向かい風が強くなる。
風さん、
背中を押してくれるんじゃなかったの。
これじゃあ押す風さんまで負けちゃいそうよ。
そんなことを思いながら街路樹を見上げた。
雨にも負けず、風にも負けず、
ただ黙って立っている木々。
今はまだ緑だけれど、
やがて季節が進めば黄金色に輝くのだろう。
秋が近づいている。そう思ったときだった。
あれ。
ひまわりがいない。
数日前まで元気いっぱいに咲いていた
ひまわりが姿を消し、
その場所には白やピンクの
コスモスが揺れていた。
少し寂しい。
でも、風に揺れる可憐な花たちを見ていると、——はじめまして。
そう言われたような気がした。
ひまわりから、コスモスへ。
夏から、秋へ。
季節は私が見ていない間にも、
静かに次の頁をめくっていた。
コスモスの花言葉を思い出した。
乙女のまごころ。
その言葉を口の中で転がした途端、
今度は別の記憶が扉を開けた。
——乙女の祈り。
小学生の頃、
父によく頼まれて弾いたピアノ曲。
友達の前でも、
音楽室で少し自慢げに弾いたことがあった。
自分が弾ける数少ない曲だったからだろうか。
その後も「乙女の祈り」を耳にすると、
なぜか心が立ち止まった。
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ。
傘を叩いていたはずの雨粒が、
ポロリン。
ポロリン。
いつの間にかピアノの音に聞こえてきた。
傘3号の透明なガラスの向こうに、
今朝の横浜がある。
でも私の目は、
もうそこだけを見てはいなかった。
父のそばでピアノを弾いていた小さな私。
友達の前で少し得意げだった私。
そして、誰かの温かな手を握りながら、
怪しいほど美しい紅葉を見上げていた私。
記憶が、また記憶を呼んでいく。
ポツ、ポツ。
ポロリン、ポロリン。
雨粒がひとつ弾けるたび、
傘3号のガラスの向こうに、
もう忘れかけていた時間が
ひとつずつ浮かび上がる。
秋が近づいたからだろうか。
それとも、今朝出逢った
コスモスが連れてきてくれたのだろうか。
私は傘3号の向こうに、
遠い昔から今へと続いてきた、
小さな旋律を聴いていた。
乙女の祈り。
それはもう、
ピアノだけが奏でる曲ではなかった。
秋、祈りを連れ来る✨
勃つねで応援-
-
共有で応援