乙女の祈り。
それはいつから、
私の中でピアノ曲ではなくなったのだろう。
今日はなぜか、
辺りの風景があまり目に入らなかった。
私はひたすら傘3号のガラス越しに、
時間の中をさまよっていた。
雨粒をひとつ魅つめれば、ひとつの記憶。
そこからまた別の記憶が呼ばれ、
忘れかけていたいくつもの私が姿を現す。
いろんな時代の乙女たち。
誰かと魅つめ合った私。
肩が触れ合う距離で語り合った私。
温かな手のぬくもりを感じながら、
美しい風景を見上げた私。
季節の料理を前に「おいしいね」と
笑い合った時間もあった。
私にとって料理を味わうことは、
料理だけを味わうことでは
なかったのだと思う。
季節を映したひと皿。
器。
部屋のしつらえ。
お店の方のおもてなし。
そして何より、今、誰とここにいるのか。
何を語り、
どんな眼差しを交わし、
どんなぬくもりを感じているのか。
それらすべてがひとつになって、
私を包む時空になる。
私は、風景を愛でていたのではない。
料理だけを味わっていたのでもない。
その人と一緒にいる時空そのものに、
恋焦がれていたのだ。
だからなのだろう。
紅葉の季節が近づくと、
胸の奥から
いくつもの乙女の祈りが目を覚ます。
今朝見上げた葉は、まだ緑だった。
でも、やがてそこへほんの少し紅が差す。
薄い紅は少しずつ広がり、
赤になり、
さらに深い赤へ。
その途中には、
きっと名前さえ持たない色が無数にある。
誰にも気づかれない色。
まだ美しいと愛でてもらえない色。
緑とも赤とも呼べない、途中の色。
でも、その名もない色を
ひとつひとつ重ねなければ、
あの深紅には辿り着けない。
人生も、そうなのかもしれない。
人から評価された時間だけが、
私をつくったのではない。
誰にも見えないところで続けたこと。
迷ったこと。
立ち止まったこと。
涙したこと。
それでもまた歩き始めたこと。
名もない途中の時間が、
少しずつ私の色を深めてきた。
まるで、熟成するように。
緑から紅へ。
紅から赤へ。
そして、幾重もの名もない色を抱きながら、
深紅へ。
燃えるようでいて、燃え尽きない。
消えるようでいて、消えない。
心のいちばん深いところで、
静かに熱を宿し続ける色。
私は、そんな深紅が好き。
昨夜の群青と、どこか似ている。
群青が、心と心のあいだをたなびく色なら、
深紅は、その時空が過ぎ去ったあとも
心の奥深くに宿り続ける色なのかもしれない。
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ。
傘3号の雨粒の中に、
いくつもの時代の色が魅えた。
軽やかな色。
弾む色。
恋焦がれる色。
悲しみに沈んだ色。
涙に滲んだ色。
そして、それらすべてを通ってきた
今だからこそ魅える、深紅。
私の心のサンクチュアリーは、
もうすぐそこだった。
やっと傘3号のスクリーンを外した。
視界が、ぱっと開けた。
曇っている。
なのに、不思議なくらい曇りのない世界だった。
これが今朝の世界。
これが今朝の朝。
そして、私の新しい朝。
海から吹いてくる風に
煽られそうになりながら、
胸にそっと手を当てた。
熱い。
心の中には、今朝連れて帰ってきた、
いくつもの乙女の祈りがまだざわめいている。
それぞれが、
ごそごそと自分の居場所を探しているみたい。
急いで片づけなくてもいい。
時間をおけば、
それぞれの祈りはきっと居場所を見つける。
そして今の私の中へ、
また新しい色となって染み込んでいく。
空を見上げた。真っ白な曇り空に、
淡いグレーの雲が幾重にも浮かんでいる。
まるで、今朝拾ってきた
乙女の祈りのようだった。
そっと目を閉じた。
何を祈ったのかは、わからない。
でも、私の心はきっと知っている。
そして目を開ける。
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ。
さっきまで
「乙女の祈り」を奏でていた雨粒が、
今度は思い切り
弾けたくなるような音に変わっていた。
過去への旅は、もうおしまい。
いくつものときめく私を
胸いっぱいに連れて帰ってきた。
さあ。
心を弾ませながら、
今日という新しい一日へ歩き出そう。
名なき紅、深まりゆく✨
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