海を離れ、さらに先へ歩いた。

雨は細かくなったけれど、
風はますます強くなっていた。
傘3号を両手でしっかり握る。
少しでも気を抜けば、
そのまま風にさらわれてしまいそうだった。

メアリー・ポピンズなら、
この風にも乗れるのかしら。
そんなことを考えて、ひとり笑った。

けれど、透明な傘3号を前へ傾けた瞬間、
そこに別の世界が現れた。

使い込んで少し曇ったビニール。
その曇りガラスのような面に、
無数の雨粒が貼りついている。
ひとつが流れ落ちれば、そこに余白ができる。

けれどすぐに、新しい一粒がやってくる。

その一粒一粒に、
これまで生きてきた時間が
映っているような気がした。

あの時のこと。
あそこへ行った時のこと。
あんなことも、こんなこともあった。
全部を拾うことなんてできない。

それでいい。
ただ不思議だった。

雨粒の向こうに浮かぶ昔の私は、
みんな笑っているように見えた。

そして少し前、
水たまりという
小さな海に映っていた今の私も、
笑っていた。

過去の私と、今の私。
その間を、無数の雨粒がつないでいた。

やがて、激しかった雨と風がふっと弱まった。
ほんの一瞬だった。

けれど私には、
閉ざされていた扉が開いたように感じられた。

「今よ。早くここまでおいで」
心のサンクチュアリーが、そう呼んでいる。

普段は見えない橋が、
その瞬間だけ私の前に架かったようだった。

心の橋。

私は、その見えない橋を渡るように
大さん橋を進んだ。

あと少し。

また風が強くなる。

傘3号を、槍の柄でも抱えるように
身体へ引き寄せる。

それでも進んだ。

そして、ようやく辿り着いた。

その瞬間、なぜか風が止んだ。

ロープがポールを叩く金属音が響いている。
いつもより、少しだけ優しい音だった。

おはよう。まず、大切な家族へ。
おはよう。
次は、いつも私を迎えてくれる空の舞台へ。
そして、もう一度。
おはよう、若様。

目の前には、白い空が広がっていた。

薄いグレーが幾重にも重なり、
静かなグラデーションをつくっている。

けれど、私の心には色が魅えていた。

昨夜から抱いてきた玲夜の群青。
モチおじさんの濃い緑。
なぞちゃんの淡い緑。
風さんの透明。

家族を思う心。
人を愛おしむ心。
自然を慈しむ心。

そして、傘3号の雨粒の向こうで笑っていた、
いくつもの私。

今日も私は、たくさんの色を心へ重ねてきた。

そのすべてを魅つめているうちに、
最後に一つの光が浮かんだ。

銀。

けれど、きらびやかな銀ではない。
銀糸を幾重にも織り重ねた布のように、

少し曇り、
静かで、
潤いを帯びながら、
奥深いところからほのかに光る色。

銀白。

その銀白のヴェールが、
心に重なったすべての色を消すことなく、
そっと包んでいく。

もしかしたら、これが愛なのかもしれない。

燃え上がるような愛でもない。
誰かを追い求める苦しい愛でもない。
抱きしめ合う幸せだけをいう愛でもない。

家族を思う。
人を愛おしむ。
花を見て心を寄せる。
木々を慈しむ。
海を見て胸を震わせる。

生まれたときから、
心の奥にそっと織り込まれていたもの。
それが愛なのかもしれない。

心の扉を開けば、どこへでも行ける。

天を舞い、
海を泳ぎ、
遠い昔へ駆けていき、
群青の世界へだって飛んでいける。

そして、どれだけ遠くまで旅をしても、
最後にはまたここへ戻ってくる。

大さん橋を往復して、私はまた歩き始めた。

そのとき、ふと思った。
なんだか今、
私の心は恋をしている。

玲夜に恋をしている。
そういうことだけではない。
家族に恋をしている。
誰かに恋をしている。
そういうことでもない。

理由も、相手もいらない。
ただ、心が開いている。

空にも。
海にも。
風にも。
木々にも。
これまで生きてきた私にも。
そして、これから出逢うものにも。

だからなのだろう。
今朝の私は、
ただ――心そのものが、恋をしている。

銀白のヴェールを纏ったまま、
私は今日という一日の物語へ歩き出した。