長い一日が終わろうとしている。
今朝の私は、
白へ還るところから一日を始めた。
何かを足すためではなく、
いったん白くするために。
積み重ねてきたものを否定するのでも、
忘れるのでもない。
一度まっさらな場所へ立ってみれば、
そこにはまだ、
自分でも知らなかった色を置ける余白がある。
そんなことを思った朝だった。
けれど今日という一日は、
その白い余白を放ってはおかなかった。
気がつけば、
次から次へと色が生まれていた。
懐かしい味から記憶の扉が開き、
何気ないひとときから昔の心が顔を出す。
少し眠ろうと思っていた午後には、
若様の扉を開いてしまった。
眠りに落ち、
目覚めれば震えるほど寒くて、
逃げるようにベランダへ出た。
そこで待っていたのは、
吸い込まれそうな空色だった。
白い雲を見つめていると、
龍が現れた。
犬にもなった。
心の扉をもう少し開ければ、
物語の人まで空を歩き始めた。
雲は何にもなっていない。
ただ、雲のまま。
それなのに、心で魅れば何にでもなった。
そのとき私は、
ずっと昔から自分の中にあったものを
思い出していたのだと思う。
名前を覚えるより前に、
世界を見ていた目。
正しいとか間違っているとか、
そんなことを考えるより先に、
「わあ」と心が動いていた頃の目。
大人になって、たくさんのことを知った。
けれど、知ることと引き換えに、
手放さなくてもいいものまで
手放す必要はない。
今日の私は、
空を見上げながら、
ほんのひととき子どものような目で
世界を魅ていた。
そして十四代。
昔の一杯を思い出しながら、
今度は自分の舌について考えた。
値段も、評判も、希少価値も、
ときには味の一部になる。
昔の私は、お酒だけではなく
「特別なものを飲んでいる私」
という気分まで一緒に飲んでいた。
それもまた、あの頃の私。
今なら、その日の気分と、
その日の料理と、
そのときの自分の舌に訊いてみたい。
今日という一日は、
どうやら私に
何度も同じことを教えてくれていた。
誰かが決めた価値ではなく、
自分がどう感じたか。
自分にはどう魅えたか。
そこに戻ればいいのだ、と。
夕暮れを過ぎ、家族との食卓を囲んだ。
私の前に並んだものは慎ましかったけれど、
そこで受け取ったものは、
とても豊かだった。
明日は送って行ってあげる。
朝ご飯は自分で作るからいいよ。
ほんの短い言葉。
けれど、その言葉の奥には、
これまで私がしてきたことを
ちゃんと見ていてくれた心があった。
誰かのために差し出してきたものは、
忘れた頃に、
思いがけない形になって
戻ってくることがある。
家族孝行をしようと思っていた私が、
反対に家族孝行をしてもらった夜。
お腹ではなく、心の方が満たされていた。
そして外へ出れば、月。
まだ満月ではない。
半分を越え、
少しずつふっくらと満ちてゆく途中の月。
その月が、少し赤く魅えた。
あ。
若様の目。
とうとう月にまで
若様を魅るようになった自分がおかしくて、
少し笑った。
朝には白へ還り、
昼には雲に自由を魅て、
夜には、まだ満ちきらない月を見ながら、
すでに満たされた心を知った。
今日という一日は、
何かを完成させる日では
なかったのかもしれない。
白いままでもいい。
途中でもいい。
何にもならなくてもいい。
そこに余白があるから、
明日また新しいものが生まれる。
そして今。
今日一日の物語は
最終章に入ろうとしている。
眠たい私は、
もう店じまいをしたがっている。
なのに、まだ遊びたい私は、
サングラスの奥で知らん顔をしている。
頭の中では、
若様も龍も、
十四代も、雲
も月も、
まだ帰る気配がない。
本日閉店。
そう札を掛けたはずなのに。
どうやら私の心には、
今日もラストオーダーがないらしい。
でも、そろそろ灯りを落とそう。
今日見つけたものを全部、
心のポケットへ。
白も。
空色も。
群青も。
月の赤も。
そして、食卓でもらったぬくもりも。
明日になれば、また違う色の一日が始まる。
だから今夜は、何色にも染めずに眠ろう。
もう一度、白へ還って。
……その前に。
若様の扉を少しだけ開けるかどうかは、
眠たい私と相談することにしよう。
「白へ還る」
白き朝
何も描かぬ
心には
まだ名も持たぬ
色があり
空を仰げば
白き雲
龍にも魅えて
犬にも魅えて
何にもならず
何にでもなる
忘れていたる
幼き目
心の奥より
そっとひらいて
見える景色を
魅えるままに
人の決めたる
価値を離れて
わが舌に
わが心にと
問いかけながら
選ぶ一杯
差し出した手の
ぬくもりは
巡り巡りて
わが手へ還り
思わぬ言葉に
心ほどける
夜の稜線
白く滲みて
見上げれば
まだ満ちきらぬ
赤き月
月は満ちゆく
その途中
されど心は
ひと足先に
ぬくもり抱いて
静かに満ちる
白から空色
空色から群青
群青の空に
月の赤
今日という日の
色をまといて
遊びし心を
ひとつひとつ
心のポケットへ
そっとしまおう
そして今宵は
すべてをほどき
また白へ
何にもならぬ
白へと還り
まだ見ぬ明日の
色を待つ
反歌
白へ還り
雲に心を
遊ばせて
月満つ前に
わが心満つ
— Morimura
白へ還り、心満つ✨
勃つねで応援-
-
共有で応援