朝歩きから帰り、お風呂に入った。
たくさんの洗濯物を干し、
あれこれと身の回りを整えながら、
朝に拾ってきた言葉を
一つずつ日記にしていく。
ずいぶん遅く始まった朝。
けれど今日は、急がなくてもいい。
そんな気持ちが、
まだ心のどこかに残っていた。
一作目をまとめながら、
ふとベランダへ出た。
その瞬間。
頬に、ふわり。
あ。風さん。
「そこにいるわね。おはよう」
「今日はずいぶん遅いんだね」
そうなの。いろんなことがあってね。
あなたに気づいたのも、今が初めてよね。
でも、きっと朝からずっと
私のそばを歩いてくれていたんでしょう?
「そうだよ。
ずっといたのに気づいてくれないから、
ちょっと寂しかったよ」
そんなことを言うように、
風さんがもう一度、私の頬を撫でた。
気持ちいい。
朝の雨は、もう止んでいた。
目の前には、きれいな空色。
その中を、
白い雲がシュワシュワと流れていく。
山の稜線あたりには、
まだ薄いグレーの雲が何層にも重なっている。
でも私は、
その雲を邪魔だとは思わなかった。
雲があった方がいい。
朝、私はたくさんのものを拾った。
遠い記憶。
言葉。
笑顔。
喜び。
迷い。
そんな一つ一つを、自分の手で掬い、
今の私と重ねながら、白へ還してきた。
だから、今の空も同じなのかもしれない。
何もないから澄んでいるのではない。
いろんなものが浮かんでいる。
何層にも重なっている。
それでも、澄みわたっている。
今の私の心みたい。
頭が切れている朝、ではない。
心が切れている朝。
スパッ、スパッと、
自分の心が指す方を選べる。
そしてその選択を、
自分で気持ちよく受け止められる。
部屋の向こうへ目をやれば、
家族が掃除をしていた。
明日持っていくための
ゆで玉子も作ってくれている。
それぞれ別のことをしている。
ときどきすれ違って、
ひとこと、ふたこと。
それだけ。
でも、なんだか幸せだった。
一緒に過ごすというのは、
何か特別なことをすることだけではないのね。
同じ空間にいて、
お互いの気配がそこにある。
それだけでいい。
心は風に吹かれて軽やか。
空もきれい。
家の中には穏やかな時間。
ただし――お腹だけは、
まったく澄みわたっていない。
空いて、空いて、空いて仕方がない。
早く食べたい。
心がどれだけ白へ還ろうと、
お腹はそんなこと、お構いなしらしい。
思わず笑った。
それから、必要なものを買いに
外へ出ることにした。
ついでに家族へ、
「お昼、何か食べる?」と聞いてみた。
希望は、近くのお店の
サンドイッチとサラダとチーズ。
ちょうどお昼の商品が
出揃う頃だろうと思って行ってみた。
ところが。
頼まれていた、
小さく四角く切られたサンドイッチがない。
あるのは三角のものだけ。
お店の人に聞いてみると、
次に入ってくるのは、
もうお昼をずいぶん過ぎてからだという。
あらら。これでは間に合わない。
でも、こんなときのために
第二希望も聞いていた。
手巻き。
こちらも残り少なくなっていたけれど、
探してみれば――あった。
頼まれていた二本。
よし。
小さなクエスト、クリア。
そんなことまで少し可笑しくなった。
外へ出る。
日差しは暖かい。
そして風が、本当に気持ちいい。
朝の雨が嘘のような空。
秋らしい、軽やかな風景。
風さん。
今日はずっと一緒ね。
時計を見る。
もう、ずいぶん時間が経っていた。
家を出るまで、それほど余裕はない。
時間って、本当に早い。
まあ今日は、
私のスタートそのものが遅かったんだけどね。
少しのんびりしすぎたかな。
そんなことを思いながら、用事を済ませた。
そして帰る途中、
公園のベンチに腰掛けた。
風が気持ちいい。
せっかくだから、
ここで少し朝の日記を書こう。
もうお昼なのに、
まだ朝の物語を書いている。
いつもの私なら、遅い、遅い。
早くしなくちゃ。
そんなふうに時計に
追い立てられていたかもしれない。
でも今日は、不思議とそうならない。
まあ、いいか。
今日はお休み。
まだお昼。
一日は、まだまだ長い。
そう思ったら、
時間まで少しゆったり流れ始めた。
そこへ、またふわり。風さん。
「今日はずいぶん、のんびりしているのね」
うん。
のんびりというよりね、
今日は一つ一つのことを、
心を込めてやっているの。
急いで終わらせるのではなく、
少し考えて、
少し思って、
ちゃんと心で感じてから次へ行く。
だから、いつもより
時間がかかっているのかもしれない。
「でも、さっきから少し時計を気にしてるよ」
あら。ばれた?
ちょっと時間が押してきたから、
ほんの少し慌て始めたところ。
風さんが、また頬を撫でた。
「でも今日は、
いつもより穏やかな顔をしてるよ」
そう?
「うん。せかせかしてない。
今日はあなた、おっとりさんだね」
思わず笑った。
おっとりさん。
そんな私も、たまにはいい。
時間を気にしすぎず、
風に吹かれ、
周りの景色を見て、
心が動いたら、
そこで少し立ち止まる。
今朝はずいぶん出遅れた。
予定どおりにならないことも、
たくさんあった。
それなのに、そんな一つ一つが、
私にいつもとは違う時間をくれた。
急いでいないから見えたもの。
立ち止まったから浮かんだもの。
寄り道したから拾えたもの。
今日の私は、それを一つずつ楽しんでいる。
さて。
そろそろ家へ帰ろう。
家族が待っている。
買ってきたものを渡して、
お昼を食べてもらおう。
それから午後は、
少し気の進まない人間ドックのプロローグ。
まあ、それはそのとき考えればいい。
午後のことは、午後の私に。
今はまだ、風さんと一緒にいる。
ベンチから立ち上がった。
「もう行くの?」
うん。
そろそろ帰るね。
「じゃあ、また一緒に行こう」
もちろん。
今日のおっとりさんも、なかなか悪くない。
風に髪を揺らしながら、
私は家族の待つ家へ歩き始めた。
何か特別なことがあったわけではない。
風が吹いて、
買い物をして、
家族の気配を感じて、
ベンチで日記を書いただけ。
でも今日は、そんな何気ない時間まで、
いつもより少し愛おしい。
急がないからこそ、
日々の小さな幸せは、
こんなにもよく魅えるのかもしれない。
午後の物語は、もう少しあとで。
風ゆるり、日々満ちる✨
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