まだ町は眠っていた。
街灯の明かりだけが、
静かな道をほのかに照らしている。
聞こえるのは私の足音と、
目覚めるにはまだ少し早い鳥や虫たちの声。
歩き始める前、
建物と建物の間にある、
いつもの私の空を見上げた。
思わず、「うわぁ……」と声が漏れた。
黒かった。
けれど、真っ黒ではない。
なぜだろう。
黒が光っていた。
闇なのに濁っていない。
冷たいはずなのに、どこか温かい。
静かなのに、
その奥では何かが激しく息づいている。
限りなく透明に近い黒。
その言葉が浮かんだ瞬間、
私は思った。
——漆黒。
昨夜まで私を離してくれなかった若様の世界が、また胸の中に蘇った。
漆黒の髪。
その黒と呼吸を合わせるような、
生命の熱を宿した深い赤の瞳。
群青の炎に包まれていたはずの心が、
今朝は漆黒に吸い込まれていく。
黒という色を、
私はどこか誤解していたのかもしれない。
「真っ黒」と言えば、
どこか濁っていて、
心の奥に何かを隠しているような響きがある。
でも漆黒は違う。
手の届かない神秘の世界へ、
一歩足を踏み入れるような色。
光を拒んだ黒ではない。
光を、その奥深くに抱いている黒。
そんなことを思いながら歩いていると、
いつもの101号室の前に来た。
私は足を止めた。
今日も来たよ。
元気にしてる?
私は今も、ちゃんと前を向いているよ。
心の中で、あなたにそう語りかけた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
けれど不思議と、悲しくはなかった。
過ぎ去ったものを取り戻したいのではない。
忘れたくないものを、
忘れずに抱いていたいだけ。
私はこれまで、
いろんな流れの中を生きてきた。
荒波にもまれたこともあった。
岩にぶつかって、
動けなくなったこともあった。
誰かに支えてもらわなければ
立てない日もあった。
それでも、水は流れる。
立ち止まっているように見えても、
ほんの少しずつ、形を変えながら。
そして今朝、川の水音を聞きながら思った。
私は、まだ流れの途中なんだ。
時にはゆらゆらと。
時には激しく。
時には岩をも削るほどの勢いで。
それでも、流れることをやめずに。
歩いていると、
昔の記憶が次々と浮かんできた。
あなたとよく行った店。
焼肉屋さん。
お寿司屋さん。
お好み焼き屋さん。
喫茶店。
カレーを作るために行ったお肉屋さん。
うなぎを買った川魚屋さん。
街は変わってしまった。
なくなった店も多い。
けれど、不思議なことに、
記憶の中の景色は消えていない。
蒸したアワビの柔らかさに驚いたこと。
動いたエビにびっくりして、
思わず放り出してしまったこと。
シャコを食べる私を見て、
ちょっと意地悪そうに笑ったあなたの顔。
思い出すと、今でも笑ってしまう。
亡くなった人を想うというのは、
悲しむことだけではないのかもしれない。
こうして突然、昔の笑い声まで一緒に蘇る。
そして私は、
あなたによく言われた言葉まで思い出した。
黒い服ばかり着ていた頃。
大人の女は黒で決めるものだと思い込み、
セットアップも、
カットソーも、
ワンピースも黒。
そんな私を見て、あなたはよく笑った。
しぶとい。
しつこい。
どんな境遇でも最後まで生き残りそうだ、と。
ずいぶんな言われようだと思ったけれど、
今になってみると、
少しだけわかる気がする。
私はきっと、簡単には消えない。
器用に歩いてこられた
人生ではなかったかもしれない。
転んで、迷って、
時には「よっこらしょ」と立ち上がりながら、
それでも私は、
生きることをやめずにここまで来た。
だから今朝、あの漆黒の空を見たとき、
私は怖いとは思わなかったのだろう。
むしろ、その黒の中に自分自身の生命を見た。
黒は、終わりの色ではなかった。
闇の色でもなかった。
長い時間をくぐり抜けてきたものだけが持つ、
深く、静かな色。
そして、その奥には確かに光がある。
風さんが、木々の葉を揺らした。
「一緒に歩いているのに、
全然気づいてくれなかったね」
そんな声が聞こえた気がして、
私は少し笑った。
ごめんね。
だって今朝の空が、
あまりにも美しかったんだもの。
私はもう一度、漆黒の空を見上げた。
そして思った。
この黒は、私を閉じ込める黒ではない。
私が生きてきた時間も、
これから生きていく命も、
すべてを静かに抱いてくれる黒なのだ。
私はまた歩き始めた。
漆黒、命を抱く✨
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