心のサンクチュアリーを前にして、
私はいったん目を閉じた。
すぐには景色を見なかった。
鳥の声。
虫たちの声。
遠くで動き始めた車の音。
頬を撫でていく風。
そして、閉じた瞼の向こうにも感じる朝の光。
それらをひとつずつ受け取りながら、
ゆっくり目を開けた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
空には、幾筋もの光の路ができていた。
一本ではない。
まっすぐ伸びる路。
ゆるやかに曲がる路。
水の流れのようにうねる路。
ふわふわと雲の上を渡っていくような路。
少しごつごつした路。
ぽつり、ぽつりと、
石段を置いたように続いている路。
どれが正しい路なのだろう。
一瞬そう思ったけれど、
すぐに違うと思った。
きっと、正しい路が
ひとつだけあるわけではないのだ。
今、自分に見えている光へ進めばいい。
一段ずつ登りたい日は、一段ずつ。
勢いよく駆け抜けたい日は、
びゅーんと走ってしまえばいい。
途中で別の光が見えたなら、
そちらへ渡ってもいい。
自分で最初から
すべてを決めてしまわなくてもいい。
そんなことを、
今朝の空が教えてくれているようだった。
私はこれまで、
何かを始めるとき、つい形を整えたくなる。
ここまで準備してから。
これが決まってから。
もう少し見えてから。
けれど、今朝の空にあったのは、
完成された一本の路ではなかった。
幾筋もの光だった。
だからきっと、
できることから始めればいい。
進んでいる途中で、
また次の光を見つければいい。
そう思ったら、胸の奥がふっと軽くなった。
……と。
ここで急に、現実が割り込んできた。
お腹が空いた。
あれほど神々しい空を見上げ、
人生だ、
光だ、
路だと
胸を震わせていた森村。
バッグから取り出したのは、
持ってきていたウサギのお饅頭。
ぱくり。
そして、お茶をゴクリ。
口の中いっぱいに甘さが広がった。
ああ、おいしい。
そういえば、もうすぐ十五夜。
今度はどんな月が空に浮かぶのだろう。
天空への路を魅つめていた心が、
ウサギのお饅頭ひとつで、
ころんと月へ転がっていく。
そんな自分がおかしくて、少し笑った。
でも、それでいいのだと思う。
空を見上げて心を震わせる私も、
お腹が空いてお饅頭を頬張る私も、
どちらも同じ私なのだから。
もう一度、空を見る。
光の路はまだそこにあった。
鳥たちが鳴いている。
虫たちも鳴いている。
空。
雲。
太陽。
山。
大地。
私はいつも、
こんなにもたくさんのものに囲まれて
呼吸をしている。
自然は何も言わない。
それでも私は、
そこからたくさんの言葉を受け取っている。
すると突然、大きな鳥の声が響いた。
何という鳥なのか、私にはわからない。
でも今朝の私には、
その声が、行っておいで。
と祝福してくれているように聞こえた。
ここからこの空を見られるのも、
今日でいったんおしまい。
次にこの場所へ戻り、
この景色を見られるのは八日後。
同じ雲はもうないだろう。
同じ光の路もない。
今朝鳴いていた鳥が、
またここにいるかどうかもわからない。
だから、「待っていてね」とは言わない。
ただ、私のこと、忘れないでね。
と心の中で鳥に語りかけた。
そして私も、この朝を忘れない。
漆黒から始まった空。
「一」として現れた雲。
光の階段。
竜のような雲。
天空へと続く大きな光の路。
そして今、
目の前いっぱいに広がっている幾筋もの路。
歩きながら受け取ったものを、
私は心の中でひとつずつ掬っていく。
光も。
音も。
記憶も。
迷いも。
これからへの小さな決意も。
ひとつずつ掬って、白へ還していく。
白へ還るということは、
何もなかったことにすることではない。
いろいろな色を抱き、
いろいろな感情を通り抜け、
それでも最後に静かな白へ還っていくこと。
その白は、何も持たない白ではない。
生きてきた時間を抱いた白。
これから歩く路を抱いた白。
今朝見た光を、心の奥にそっと宿した白。
ふと道端を見ると、
燃えるような彼岸花が咲いていた。
鮮やかな赤。
その赤を見た瞬間、
若様のやさしい笑顔が浮かんだ。
漆黒。
群青。
赤。
光。
そして白。
今朝出逢ったすべての色が、
私の中で静かにつながっていく。
やがて目の前の空は、
すっかり白くなっていた。
ああ。本当にドラマチックな朝だった。
いや——ドラマチックというより、
神々しい朝だった。
空に光を魅たのではない。
今朝私は、自分の心の中に、光を見た。
その光を胸の奥へ掬い、白へ還す。
そして、その白を抱いて。
私はまた背筋をしゃきっと伸ばす。
さあ。ここから先は、私の路。
横浜へ向かって、
私はまた歩き始める。
幾筋の路、白へ還る✨
勃つねで応援-
-
共有で応援