私が清水寺の随求堂で、
初めて胎内めぐりをしたのは、
取引先の方に誘われたのがきっかけだった。
「清水寺に、そんなものがあるの?」
半信半疑のまま、
その方のあとをついていった。
随求堂。
そこには、
人々の願いや求めに随って
叶えてくださるという
大随求菩薩が祀られている。
そのお堂の下へと続く階段が、
胎内めぐりの入口だった。
「中は真っ暗ですから、
気をつけてくださいね」
そう言われた瞬間、少しぞくっとした。
胎内とは、どんなところなのだろう。
私の中に浮かんだのは、
母のお腹の中で眠る胎児だった。
母体とつながり、
守られながら、
必要なものを受け取り、
静かに育っていく。
そんなやわらかなイメージを抱きながら、
靴を脱ぎ、一段ずつ地下へ下りていった。
そして——本当に何も見えなくなった。
前には一緒に入った人がいるはずだった。
後ろにも誰かいる。
けれど、見えない。
最初は聞こえていた話し声も、
だんだん消えていった。
気づけば、みんな黙っていた。
私を導いてくれるのは、
左手でたどる大きな数珠だけ。
丸い珠をひとつ、またひとつ。
握って、離して。
次の珠を探して。
細い通路を、そろり、そろりと進んでいく。
真っ暗だった。
目は役に立たない。
誰かの姿も見えない。
やがて聞こえてくるのは、
自分の息遣いだけになった。
ひんやりとした地下の空気。
自分の呼吸。
指先に伝わる数珠の感触。
そして——気配。
見えない。
聞こえない。
そうなったとき、
人はこんなにも「感じる」ことに
集中するのだろうか。
私の感覚は、少しずつ内側へ、
内側へ向かっていった。
あのときの私は、
きっと光を求めていたのだと思う。
どこかに光があるはず。
そこへ行きたい。
そんな気持ちだけを頼りに、また一歩。
そして、もう一歩。
すると暗闇の先に、かすかな光が見えた。
青白い光。
その中に、石があった。
そこに触れ、
願いを託すのだと教えられていた。
私はそっと手を伸ばした。
冷たい石に触れた瞬間、
不思議なことに、
いろいろな思いが胸の奥から浮かんできた。
つらかったこと。
苦しかったこと。
嬉しかったこと。
楽しかったこと。
長い時間の中で抱いてきた喜怒哀楽が、
ひとつ、またひとつ。
けれど、
それらは私を苦しめるために
戻ってきたのではなかった。
浮かんでは、消え。
浮かんでは、漆黒の中へ吸い込まれていく。
いつしか私は、何も考えなくなっていた。
ただ、そこにいた。
無心。
そんな言葉がいちばん近いのかもしれない。
そして不思議なことに、
心が静かになると、
「こちらへ行けばいい」
という気配がわかった。
目で見えたわけではない。
誰かが教えてくれたわけでもない。
ただ、感じた。
こちら。
こちらへ進めばいい。
私は再び数珠にすがりながら、
一歩ずつ進んだ。
やがて、上の方に淡い光が見えた。
光だ。
その瞬間、心の底からほっとした。
そして階段を上がり、地上へ出た。
太陽の光が身体を包んだ。
眩しかった。
あたたかかった。
まるで今、
初めてこの世に
生まれ出たような気持ちだった。
それまで背負っていたものを、
暗闇の中へ置いてきたような。
執着も、煩悩も、余分なものも、
いったんすべて脱ぎ捨てて、
裸の心のまま外へ出てきたような。
私は、もう一度生まれた。
そんな感覚だった。
時間にすれば、
ほんのわずかな体験だったのだと思う。
けれど私には、
とても長い旅のように感じられた。
当時、たしか100円ほどだった。
こんなわずかな金額で、
こんなにも不思議な
「生まれ直す」感覚を味わえるなんて。
そう思ったことを覚えている。
それからも、心が苦しくなったとき、
救いを求めるように何度か随求堂を訪れた。
けれど今になって思う。
救いとは、何だろう。
菩薩様がすべてを消してくださる
ことなのだろうか。
私は、そうではないような気がしている。
救いとは、自分の心と向き合い、
自分の心を越えていくための
力を取り戻すこと。
なのではないだろうか。
菩薩様も、仏様も、神様も、
代わりに私の人生を
歩いてくださるわけではない。
ただ、迷って立ち止まった私のそばにいて、
「こちらにも路がありますよ」と、
小さな光を置いてくださる。
その光を見つけ、
また歩き出すのは、私自身なのだ。
そして今朝、
「白へ還したものは、心の奥深くへ沈み、
漆黒に抱かれているのかもしれない」
と考えたとき、
私は随求堂の暗闇を思い出した。
あの漆黒。
音さえ消えてしまったような静寂。
その奥にあった、青白い光。
もしかすると、
あそこは私にとって、
過去の私と、今の私が
一瞬だけ逢う場所だったのかもしれない。
昔の記憶が呼び起こされ、
今の私に必要なものだけをそっと渡し、
役目を終えたものは再び漆黒へ還っていく。
あの石は、今を生きている私を映す、
心の鏡だったのかもしれない。
漆黒は、怖い闇ではない。
記憶を消す場所でもない。
すべてを静かに抱き、
必要なときまで眠らせてくれる場所。
そして私がまた迷ったとき、
その奥から、
ぽん、とひとつ、
光を返してくれる。
だから私は、
あの胎内めぐりが好きなのだと思う。
暗闇へ入り、
自分に逢い、
余分なものを手放し、
そして再び光の中へ生まれ出る。
あのとき私は、
菩薩様に救っていただいたのではなく、
自分の中にある光へ還る路を、
そっと教えていただいたのかもしれない。
漆黒を抜けた先に、また光がある。
そして光の中へ戻った私は、
ほんの少しだけ、
新しい私になっている。
漆黒に
過去の私と
逢うひととき
光を抱いて
また生まれゆく
— Morimura
歴史の小径|随求堂・胎内めぐり ― 漆黒の中で、私に還る✨
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