長い一日が終わろうとしている。

今、静かに目を閉じてみる。

今日という一日は、
ずいぶん長い旅だったような気がする。

けれど、浮かんでくるのは
出来事の数々ではない。

ひとつの色。
ひとつの光。
そして、そのあいだを揺れながら
歩いてきた私の心。

朝、私の前にあったのは漆黒だった。
怖い黒ではなかった。
何もかもを閉ざす闇でもなかった。

深く、静かに、
その奥に何かを抱いている黒。
限りなく透明に近い黒。
その漆黒を見たとき、
私は自分の心の奥にも、
同じような場所があるのではないかと思った。

そこには、生きてきた時間が沈んでいる。

忘れたわけではない記憶。
誰かを想った心。
苦しかったこと。
嬉しかったこと。
言葉にならないまま残ったもの。

それらは消えたのではなく、
白へ還り、
さらに奥へ沈み、
静かな漆黒に抱かれている。

そう思ったとき、
もう無理に忘れなくてもいいのだと感じた。

何かを抱いていることと、
前へ進むことは、
きっと矛盾しない。
過去を持ったままでも、
私は歩いていける。

今日一日の物語は
最終章に入ろうとしている。

朝の私は、その先で光を見た。

一本ではなかった。
幾筋もの光。

それまで私は、
どこかで「正しい路」というものを
探していたのかもしれない。

これでいいのか。
もっと準備してからの方がいいのではないか。
まだ足りないのではないか。

そんなふうに、
すべてが整うのを待っていた。

けれど、今日の空にはいくつもの路があった。

まっすぐな路も。
曲がる路も。
ゆっくり続く路も。
一気に駆け抜けたくなる路も。

その空を見ながら、
ああ、そうか。
と思った。

最初から一本に決めなくていい。
今見えている光へ向かえばいい。
途中で別の光が見えたなら、
そちらへ渡ってもいい。

大切なのは、間違えないことではなく、
自分の足で歩いていること。

その感覚だった。

そして、その思いは一日を通して、
ずっと私の中にあった。

家族と過ごしているときも。
家を出るときも。
移動しているときも。
横浜へ戻ってきたときも。
誰かのぬくもりに触れた夜も。

心というものは、
ひとつの場所に留まってはいない。

家族と離れる瞬間には、
このまま一緒にいたいと思う。
寂しいと思う。

それなのに、
横浜へ向かう自分の心も確かにある。

どちらかを選ばなければならないと
思っていたら、
苦しくなる。

でも今日の私は、
どちらも本当の私なのだと、
わりと素直に受け止められた。

一緒にいたい私。
次の場所へ向かいたい私。
離れることを寂しいと思う私。
新しい時間を楽しみにしている私。

全部が同時にいていい。
心は、ひとつの色だけでなくていい。
それは、
今朝見た空と同じなのかもしれない。

漆黒があり、白があり、
ピンクゴールドがあり、光があった。

それぞれが消し合うのではなく、
重なり合って、ひとつの朝になっていた。

私の心も、きっとそうなのだ。

夜になり、
久しぶりに逢えた人の笑顔を見た。
その瞬間、身体の奥から、
ああ、逢えてよかった。
という思いが湧いてきた。

何か特別なことを
してもらったからではない。

そこにいてくださること。
話を聞いてくださること。
笑い合えること。
抱きしめてもらえること。

そんな小さなぬくもりが、
心を少しずつほどいていく。

私は今日、幸せというものは、
大きな形をして
やってくるものでは
ないのかもしれないと思った。

誰かの何気ない笑顔。
一緒に過ごす時間。
そっと差し出される気遣い。
何も言わず聞いてくれる優しさ。

そういうものが、
心の中へ静かに積もっていく。

そして私は、
それらをまた白へ還していく。
白へ還すということは、
なくすことではない。

今日、私はそれを何度も感じた。
白に還したものは、
心の奥深くへ沈み、
漆黒に抱かれる。

そしていつか、
私が必要としたときに、
またひとつの光となって戻ってくる。

そう思うと、
すべてを握りしめておかなくても
いいのだと思える。

覚えていようと力を入れなくても、
大切なものはきっと、
ちゃんと私の中に残っている。

ホテルを出たあと、私は月を見上げた。
朝の光とは、まったく違う光だった。

朝の光は、
「進んでおいで」と私の背を押してくれた。
夜の月は、
「今日はもう、ここまででいい」と
静かに包んでくれた。

朝は、これから。

夜は、ここまで。

その二つの光のあいだを、
私は今日一日かけて歩いてきたのだと思う。

何かを得ようとしていた朝。
そして今は、
得たものも、
得られなかったものも、
すべてそのまま抱いている夜。

それでいい。
そう思える。

今日、
私は何か新しい答えを
見つけたのではない。
むしろ、答えを急がなくてもいいのだと、
少しだけわかった。

自分の中には、
進む力も、
立ち止まる力も、
誰かを想う力も、
誰かに委ねる力も、
ちゃんとある。

そして、何かを手放したあとにも、
心は空っぽにはならない。

白へ還ったものは、
漆黒に抱かれ、
静かに息をしている。

だから私は、明日もまた歩ける。
正しい路を探すためではなく。
今の私に見える光へ向かうために。

月は満ちていく。
そして、やがて欠けていく。

けれど、欠けることは失うことではない。
また満ちるための時間なのだと思う。

私の心も同じ。

満ちて。
ほどけて。
手放して。
また光を受け取る。

今日、空に見えた幾筋もの路。
本当にひらいたのは、
空の路ではなかったのかもしれない。

私の心の中に、路がひらいた。
そう思える夜だった。

今夜は、
その路を急いで歩こうとは思わない。

月の光の中で、
今日という一日を静かに白へ還し、
その白を、心の奥深くの漆黒へ預けよう。

そして明日、
また新しい光に逢えたなら、
そのとき私は、
自然に一歩を出すのだと思う。

「心の路」

漆黒に
抱かるる白の
静けさを
胸の奥へと
沈めつつ
ひらく光を
見つめたり
ひとつならざる
路を知り
迷ひもわれと
受け入れて
離るる寂し
逢ふぬくみ
ともに心の
色となる
満ちゆく月に
身をあづけ
今日の想ひを
白にして
急がず明日の
光待つ
わが心にも
路ひらき
また一歩ずつ
歩まむものを

反歌

月満ちて
心の奥に
路ひらく
白を抱きつつ
明日へ歩まむ

— Morimura