心のサンクチュアリーをあとにした。
以前の私なら、ここで大きく息を吸い、
「よし、行こう」と心の中で
声をかけていたと思う。
ここまでが朝の心ならし。
ここからが今日の私。
そんなふうに、自分で境目をつくっていた。
ここへ来たら整える。
ここで無になる。
ここで気持ちを切り替える。
その区切りが、私を前へ進ませてくれていた時も確かにあった。
でも今朝は、
不思議なくらい何も起こらなかった。
「よし」もない。
「さあ」もない。
心機一転というほどの高揚もない。
ただ、すうっと歩き出した。
昨夜の月の余韻をまだ少し抱いたまま。
今朝の太陽の光を受け取りながら。
昨日と今日の間を、
ゆらゆらと移ろいながら。
そのことに気づいたとき、
ああ、
私は変わったのかもしれないと思った。
以前は、心を自分で動かそうとしていた。
ここで切り替える。
ここで気合いを入れる。
ここから新しい自分になる。
自分で時間に印をつけ、
その印に心を合わせようとしていた。
でも今は、
心の方が先に知っているような気がする。
いつ昨日を離れ、
いつ今日へ入ればいいのか。
私が命令しなくても、
心はちゃんと流れていく。
まるで季節のように。
夏と秋の境目を、誰も正確には言えない。
昨日まで夏だったものが、
ある朝突然、「今日から秋です」と
姿を変えるわけではない。
夏が少し残り、秋が少し入り込む。
また暑さに引き戻され、
次の日には風が秋を連れてくる。
そんな綱引きを繰り返して、
気がつけば、いつの間にか季節は移っている。
心も、きっと同じなのだ。
昨夜の月と、今朝の太陽。
どちらが今の私なのだろう。
そんなことを決める必要はない。
まだ月の光が残っていてもいい。
もう太陽の方へ心が向かっていてもいい。
その間で揺れている時間さえ、
今の私なのだから。
そう思うと、
「移ろう」ということが、
とても愛おしく感じられた。
歩きながら、ずっと言葉を紡いできた。
空を見て。
風を感じて。
昔の記憶に飛び、
また目の前の海へ戻り、
光を見て、影を見て。
けれど、大さん橋をあとにする頃には、
不思議なくらい心が空っぽになっていた。
あれ?
私、今朝いったい何を考えていたんだろう。
少し笑ってしまった。
あれほど長い時間、心の中を旅していたのに。
今すぐ全部思い出してと言われても、
たぶん無理だ。
でも、歩き始めたときの私と、
今の私は違う。
それだけはわかる。
言葉そのものは、
もうどこかへ行ってしまったのかもしれない。
けれど、そこで感じたものは、
ちゃんと私の中に残っている。
白へ還り、心の奥深くへ沈み、
静かな漆黒に抱かれている。
ぎゅっと閉じ込められているのではなく、
抱かれて、
撫でられて、
大切に眠らせてもらっているような感覚。
そして必要になったときには、
その中から、
ふっと昔の言葉が飛び出してくる。
今朝もそうだった。
突然、思い出した。
無一物中無尽蔵。
以前、お客様から教えていただいた言葉。
何度も心のサンクチュアリーで
唱えたことがある。
あの頃の私は、
「無になろう」と
一生懸命だったのかもしれない。
何も持たない心にならなければ。
余計なものを捨てなければ。
そうしなければ、
新しいものを受け取れない。
そんなふうに、「無になること」さえ、
自分に課していたのかもしれない。
でも今朝は、無になろうとはしていなかった。
何も捨てようともしていなかった。
ただ歩いていた。
ただ感じていた。
そして気づけば、心は空っぽだった。
だからこそ、
あの言葉が向こうから
やってきたのではないだろうか。
無一物中無尽蔵。
何も握りしめていない。
だから、いくらでも受け取ることができる。
空っぽとは、何もないことではない。
新しいものが、
いつでも自由に入ってこられること。
そんな意味なのかもしれない。
すると今度は、もう一つ、
昔の記憶の中から言葉が浮かんだ。
自然に帰れ。
ルソー。
若い頃に知った言葉が、
どうして今朝、
こんなにも自然に浮かんできたのだろう。
森へ帰ることではない。
何かを捨てて、
何者でもない自分になることでもない。
今の私には、その言葉が違って聞こえた。
自然に還る。
自分で自分を動かそうとすることをやめて、
心が本来持っている流れへ戻ること。
ここで切り替えなければ。
ここで頑張らなければ。
ここまでに答えを出さなければ。
そんな境界線を少しずつ消して、
来るものを受け取り、
去るものを追わず、
ただ流れていく。
それが、今の私にとっての
「自然に還る」なのかもしれない。
一歩進めば、その一歩はもう過去になる。
だからといって、
振り返ってはいけないわけではない。
必要になれば、
漆黒の奥に眠っている記憶が、
また光をまとって戻ってくる。
そのとき、
「ああ、こんなことを感じていたんだ」と、
もう一度味わえばいい。
それもまた、心の旅。
朝に一度味わった風景が、
言葉になったあと、
また違う輝きをまとって戻ってくる。
一度目とは違う。
でも、同じ心から生まれた風景。
それをもう一度受け取れるなんて、
なんだか少し得をしたようで、
私は嬉しくなる。
だから、過去を握りしめなくてもいい。
未来を急いで決めなくてもいい。
今、この瞬間に踏み出す一歩だけを、
大切にすればいい。
そしてまた、次の一歩へ。
移ろいながら。
流れながら。
ときには月の光を残しながら、
ときには太陽へ引かれながら。
そうして知らないうちに、
今日という日に馴染んでいく。
私は今、以前より自由なのかもしれない。
何かから解き放たれたというより、
自分でつくっていた境界から自由になった。
そんな気がする。
世界が広がったのではなく、
私の心が、
世界をもっと深く受け取れるようになった。
だから今朝、
光だけでなく影まで美しく見えた。
昨夜だけでなく今朝も愛おしい。
過去も今も、手放すものではなく、
移ろいの中で静かにつながっている。
季節が移るように。
月が太陽へ明け渡すように。
私もまた、何かを終わらせて
今日へ来たのではなく、
そのすべてを抱いたまま、
自然に今日へ還ってきた。
そう思える朝だった。
移ろひて、自然に還る✨
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