今は便利な時代になった。
日本のどこにいても、
全国各地の名産品や、
その土地でしか食べられなかったものまで、
簡単に取り寄せることができる。
食べたいと思えば、
その土地へ行かなくても食べられる。
けれど私は昔から、
それだけでは少し物足りないと思っていた。
できることなら、
その土地へ行って食べたい。
なぜなら、
郷土料理や名産というものには、
その土地で生まれた理由があると思うから。
気候があり、
風土があり、
海があり、
山があり、
そこで暮らしてきた人たちの生活がある。
暑さをしのぐ知恵。
寒さを越える知恵。
保存するための工夫。
その土地で採れたものを、
少しでもおいしく食べようと
考えてきた人たちの知恵。
そういうものが長い時間をかけて積み重なり、
やがて郷土料理となり、
名産となっていったのではないだろうか。
だから私は、
現地の風に吹かれながら食べたい。
その土地の空を見て、
街を歩き、
匂いを感じ、
「ああ、だからここで、
この味が生まれたのね」
そんなことを感じながら食べてみたい。
そうすると、
同じひと口なのに、
味が少し深くなるような気がする。
今朝、横浜を歩きながら、
そんなことを改めて考えていた。
横浜には洋菓子が多い。
そういえば神戸にも洋菓子が多かった。
どちらも港町。
外国から人がやってきて、
異国の文化が街へ入り、
その土地に住む人たちの日常へ
少しずつ溶け込んでいった。
だからなのだろうか。
古い街並みの中に、
洋食屋や洋菓子屋がよく似合う。
「かをり」の宝石ゼリー。
砂糖をまとった、小さな宝石のようなゼリー。
以前いただいたとき、
家へ持ち帰ると家族がとても気に入ってくれた。
そして今度は、
レーズンサンドがおいしいらしいと聞いた。
馬車道十番館には、
ビスカウト。
今朝その建物を実際に見つけた。
レンガ造りの、
どこか昔の横浜を残したような建物。
まだ店は開いていない。
だから今日は、
食べることはできなかった。
でも不思議だった。
昨日まで名前しか知らなかったお菓子が、
今日にはひとつの建物と結びついた。
その建物が、
道と結びついた。
そしてその道が、
横浜という街の歴史と結びついていく。
そうなると、
ビスカウトはもう、
ただの焼き菓子ではなくなってくる。
食べる前から、
少しずつ物語が始まっている。
そんなことを考えていたら、
昔飲んだ一本の白ワインを思い出した。
ダリラ。
ホテルのレストランで、
特に銘柄を指定したわけでもなく
頼んだ白ワインだった。
ボトルが運ばれてきて、
何気なくラベルを見ると、
そこには音符のようなものが描かれていた。
「これ、どこのワイン?」そう聞くと、
「シチリアです」と教えてもらった。
シチリア。
その言葉を聞いただけで、
私の頭には、
さんさんと降り注ぐ太陽と
海辺の町が浮かんだ。
そしてなぜか、
『ゴッドファーザー』を思い出した。
マフィアの怖い映画だと思って見始めたのに、
最後には、人を愛することや
家族への思いが深く残った映画。
そしてあのテーマ曲。
ラベルの音符を見ながら、
「これ、何の曲?」
とスタッフの方に聞いた。
「わかりません」
そう言われて、
「ゴッドファーザーの
愛のテーマだったりして」
なんて冗談を言いながら、
私はひとりで口ずさんでいた。
そのときは、
それだけだった。
すっきりとして、
飲みやすい白ワイン。
そんな印象だった。
ところが、
しばらくして参加したワイン会で、
偶然そのダリラと再び逢った。
そこで聞いた。
ダリラには、
対になる赤ワインがある。
カントドーロ。
ふたつのワインの背景には、
シチリアに伝わる恋の物語があるという。
私はびっくりした。
あのとき、
ラベルの音符を見ながら、
勝手に「愛のテーマだったりして」と
笑っていたワインに、
本当に愛の物語があった。
なんだか嬉しくなった。
そして私は、
どうしてもカントドーロも
飲んでみたくなった。
ダリラは見かけるのに、
カントドーロはなかなか見つからない。
そこだけは仕方なく、
取り寄せた。
赤いカントドーロは、
白いダリラよりもずっと力強く、
私には少し渋く感じられた。
でもそのとき、
味以上に面白かったのは、
ふたつが対になったワインだ
ということだった。
窓辺に立つダリラ。
明るいシチリアの光。
その向こうから帰ってくるカントドーロ。
互いに姿を見つけ、
手を振り、
そこから恋が始まっていく。
そんな風景を思い浮かべながら
グラスを口へ運ぶと、
いつものワインとは違って感じられた。
ワインの味が変わったわけではない。
変わったのは、
私がその一杯の中に魅ているものだった。
太陽が入った。
海が入った。
シチリアの風が入った。
そして、
ふたりの物語が入った。
そこで、
今朝ようやくひとつのことに気がついた。
私はずっと、
食べ物そのものだけを
味わっていたわけではないのだ。
誰と食べているのか。
どんな場所なのか。
どんな会話をしているのか。
窓の外には何が見えているのか。
そのとき、
私はどんな気持ちなのか。
そういうものまで全部が、
見えないエッセンスとなって、
料理の中へ入っていく。
だから、
同じ料理でも、忘れられない一皿がある。
同じ酒でも、忘れられない一杯がある。
料理そのものがおいしいことは、
もちろん大切。
でもそこへ、
土地の風。
街の匂い。
歴史。
誰かとの会話。
そして物語。
そんなものが重なった瞬間、
「おいしい」は、
舌だけでは感じられないものへ変わっていく。
もしかしたら私は、
味を食べたいのではなく、
味の向こうにある世界まで
食べたいのかもしれない。
だから、
現地へ行きたい。
歩いてみたい。
風に吹かれてみたい。
店を探して、
少しくらい道に迷ってもいい。
そしてようやく見つけた店の扉を開き、
「ここだったんだ」
と思いながら、
その土地で生まれたものを口へ運ぶ。
その瞬間まで含めて、
私にとってはひとつの料理なのだろう。
今朝。
まだ開いていない十番館の前に立ちながら、
そんなことを考えた。
今日は場所を見つけただけ。
ビスカウトは、
まだ食べていない。
だから物語は、
まだ途中。
いつか扉を開け、
あの街の中で
ビスカウトをひとつ口にしたとき、
今日歩いた道も、
今朝の風も、
きっと一緒に味わうことになる。
それでいい。
味は、
皿の上だけにあるのではない。
グラスの中だけにあるのでもない。
きっと、味は、風の中にもある。
風を食み
土地の記憶を
舌に置く
ひと皿の奥
物語あり
— Morimura
「味は、風の中にある」
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