長い一日が終わろうとしている。

本当なら、
昨夜のうちに綴るはずだった、このひと言。

けれど、気がつけば日付は変わり、
10月9日は、
もう昨日という名前になっていた。

そして今、10月10日の朝。
目は覚めているのに、
心はまだ夜の中にいる。

ベランダに出ると、空は深い群青。
その中に、ひときわ明るく輝く星がひとつ。
少し離れたところには、
寄り添うように瞬く小さな星たち。

不思議だな。
眠りから目覚めたばかりの身体なのに、
あの星の輝きを魅つめた途端、
心の奥に静かな明かりが
灯ったような気がした。

夜が明ける前に、
昨日の心をそっと迎えに行こう。
そんな気持ちになった。

昨日は、お店をお休みした一日だった。
けれど、休みという言葉から想像するような、
何もせずに過ごす一日ではなかった。

心は、ずいぶん忙しかったように思う。
ひとつのことに向き合えば、
そこからまた別の想いが生まれる。
何かを終えたつもりが、
そこから新しい興味が顔を出す。

そして、いつの間にか、
心は思いがけない方向へ歩き始めている。
そんな一日だった。

でも、振り返ってみると、
不思議なことに、
何をしたのかということは、
あまり大切ではないような気がする。

心に残っているのは、
もっと柔らかく、
もっと温かなもの。

それは、
家族とともに囲んだ食卓のぬくもりだった。
美味しいものを、
美味しいねと言いながらいただく。

特別なことではない。
けれど、そんな何でもない時間が、
昨日の私には何より贅沢に思えた。

誰かのために用意すること。
同じ食卓を囲むこと。
そして、同じ美味しさを分かち合うこと。

食べるという営みには、
お腹を満たすこと以上の何かがあるのだろう。

それは、
心の中に小さな灯をともしてくれるような、
優しい幸福だった。

そして、そんな食のぬくもりの中から、
ふいに懐かしい味の記憶が甦ってきた。

モロコ。

琵琶湖の小さな魚。
その名前を心に浮かべただけで、
遠い日の風景が、
まるで昨日のことのように戻ってきた。

ああ。
あの味。
あの湖。
あの古い宿。

思い出そうとしていたわけではない。
忘れていたわけでもない。
ただ、心の奥の小さな引き出しに、
長い間しまわれていただけなのだろう。

それが昨日、そっと開いた。
すると、不思議なことが起こった。
私の心が、電車に乗り始めたのである。

車窓の向こうに広がる琵琶湖。
南から北へ。
ゆっくり、ゆっくり。

湖のほとりをなぞるように、
心の電車が走っていく。
実際には、私は家族とともに、
いつもの場所にいる。
それなのに、
心だけが遠い日のあの場所へ向かっていた。

あの頃の私が、そこにいる。
今より少し若くて、
今より少し怖がりだった私。

古い宿の一夜に心細さを覚えながらも、
翌朝には、
湖面に映る朝陽の美しさに息を呑んでいた私。
なんだか、懐かしい。
そして、少し愛おしい。

あの頃の私は、
あの風景が
これほど長く心に残るとは
思っていなかっただろう。

けれど今、横浜の海で朝陽を迎え、
空の色や水の揺らぎに
心を寄せている私がいる。
もしかしたら、
あの琵琶湖の夜明けは、
ずっと昔から今の私へと
続いていたのかもしれない。

水鏡。

それは、空を映すだけではない。
過ぎ去った時間も、
忘れかけていた想いも、
そっと映し出してくれる。
昨日、私はそんなことを感じていた。

人の心は、不思議なものだ。
身体が動いていなくても、
心は旅をする。
何十年という時間を、
たったひとつの味の記憶で飛び越えてしまう。

そして、帰ってきたときには、
ほんの少し、
今いる場所が愛おしくなっている。

遠い琵琶湖の記憶をたどったからこそ、
今、家族と囲める食卓が、
いっそう温かく感じられたのかもしれない。

過去の幸せと、今の幸せ。
そのふたつは、
決して別々のものではない。
静かに重なり合いながら、
今日の私という人間をつくっている。
そんな気がした。

そして今。
群青の空には、まだ星が輝いている。
夜の名残を抱いたまま、
私は昨日の物語を綴っている。

一日遅れの振り返り。
けれど、これでよかったのかもしれない。
昨夜のうちに急いで閉じていたなら、
きっと気づかなかったことがある。

時間を置いたからこそ、
出来事の輪郭が少しずつ薄れ、
その奥にあった心の色だけが残っている。

忙しかったことも、
慌ただしかったことも、
今はもう遠い。

最後に残ったのは、
家族のぬくもりと、
懐かしい湖の味わい。
そして、遠い日の水鏡に映る、
あの朝陽だった。

ああ。
いい一日だったな。
そう思えることが、何より嬉しい。

昨日は昨日のまま、
私の心の中に静かに収まっていく。
そして今日。
まだ夜の色をまとった空の下で、
新しい一日が始まろうとしている。

ねえ、風さん。
昨日の私は、
琵琶湖の北まで旅をしていたみたい。
そして今朝は、
星たちに迎えられて帰ってきたのよ。

ふわり。

どこからか、
優しい風が通り抜けたような気がした。

昨日の物語を閉じることは、
昨日とお別れすることではない。
その温もりを胸にしまい、
新しい朝へ連れていくことなのだろう。

さあ。10月9日の物語は、これでおしまい。

心はまだ少し夜の中。
それでも、群青の向こうには、
もう新しい朝が待っている。

そして今日もまた、
私の知らない物語が、
どこかで静かに生まれようとしている。


一日の終わりに寄せる長歌

群青の
空に瞬く
星の灯を
仰ぎて想う
過ぎし日の
湖のほとり
モロコの味
心に残り
懐かしき
水鏡の朝
時を越え
今に重なる
家族との
食卓の温み
胸に抱き
昨日をそっと
送りゆく

反歌

星明かり
湖の記憶
胸に抱き
昨日を閉じて
朝を迎えむ

— Morimura