馬車道に差しかかる頃、
私の心は、すでに少し遠いところへ
旅立とうとしていた。

今朝、群青の空に見つけた三つの星。

ひときわ明るく輝く星の上に、
二つの星が並んでいた。

その光を結んでみると、
美しい三角形が浮かび上がる。

冬の大三角。

ああ、そうだったのね。

いつか教科書で習った、
あの星たちだったのかもしれない。

昔は星座早見盤を手に、
どれがどの星なのか、
一生懸命探したこともあった。

けれど今は違う。
星を探しに行くのではない。
ただ、そこにある空を見上げ、
輝く星たちを魅ていたい。
そんな気持ちで歩いている。

ふと、THE ALFEEの
『星空のディスタンス』が心に浮かんだ。
カシオペア。
その名前を耳にするだけで、
なぜか私の心には、
ふたりで夜空を見上げながら
夢を語り合う情景が広がってくる。

それは過去の記憶ではない。
もしかすると、
まだ訪れていない未来への
小さな憧れなのかもしれない。

ふふふ。

星には、そんな不思議な力がある。

そして私は、
あの三角形の真ん中に、
いつの間にか入り込んでいた。

下の辺にそっと腰を掛け、
両側の辺をブランコの鎖のように握る。
ゆらり。
ゆらり。
群青の空に浮かぶ、
星のブランコ。

その揺れに身を任せているうちに、
心は遠い少女時代へと戻っていった。

そういえば、
私は数学が好きだった。

けれど、最初から得意だったわけではない。
小学校の算数。
計算は速かった。
答えを出すことも得意だった。
ところが、割合になると、
途端にわからなくなる。

中学校へ進んでも、
公式を使った計算なら得意だった。
けれど文章題は苦手。
「兄は弟より20分遅れて出発した」
そんなひとひねりが加わるだけで、
もう頭の中は大混乱。

なぜだろう。
公式は覚えているのに、
解き方が見えてこない。

そんな私に、
転機が訪れたのは高校1年生のときだった。

ある数学の試験。
確か、速さと時間に関する文章題。
問題を何度読んでも、
最初はさっぱりわからなかった。

そこで私は、
一本の数直線を描き始めた。
速さ、距離、時間。
文章に書かれた条件を、
ひとつずつ線の上に置いていく。
考えては書き、
書いては消し、
また別の線を引く。
答案用紙は、
いつの間にか真っ黒になっていた。

おそらく20分、30分。ひたすら考え続けた。
すると、ある瞬間。

あっ!

それまでばらばらだった数字たちが、
突然、意味を持ち始めた。
ひとつの式が解ける。
すると、次の式が見えてくる。
また次へ。
そして、また次へ。
まるで険しい山を、
一歩ずつ登っていくようだった。
そして最後にたどり着いた答え。
x=1あのときの快感を、
私は今でも忘れられない。

答えが正しかったこと以上に、
自分の力でそこへたどり着いたことが、
何より嬉しかった。
そうか。数学とは、
公式を暗記するだけの学問ではないのだ。

与えられた条件を読み解き、
状況を分析し、
順序立てて考え、
自分の手で答えへの道を組み立てていく。

そのことに、
私はようやく気づいたのだった。
それから数学が、
ますます好きになった。
三角関数。
微分積分。
順列。
数字たちが論理によって結ばれ、
ひとつの答えへと導かれていく。

あの面白さ。

思えば、仕事で大きな問題に直面したときも、
私はまず、その構造を考えてきた。
何から始め、
どの順序で進め、
どこに問題が潜んでいるのか。
頭の中にフローチャートを描き、
ひとつずつ整理していく。

ああ、そうだったのか。
高校1年生のあの日に描いた数直線は、
今も私の人生の中で生き続けていたのだ。

そう思うと、
なんだか胸が熱くなった。

ゆらり。
ゆらり。

星のブランコは、
まだ群青の空を揺れている。

すると今度は、
中島みゆきさんの『地上の星』が
心の中に流れ始めた。
何度も歌った。
たくさんの方からリクエストされ、
自信を持って歌ってきた大好きな曲。

けれど今朝、
その歌が初めて違う表情を見せてくれた。
人々が見上げる天空の星。
けれど、地上にもまた、
懸命に輝いている星たちがいる。
誰にも知られず、
誰かに褒められることもなく、
ひたすら自分の道を歩き続ける人々。
その情熱や汗や涙。
そんな人々の姿に、
光を当てようとした歌だったのかもしれない。

そして、ふと思った。
あの日、
真っ黒な答案用紙を前に、
ひたすら考え続けていた少女。
あの子もまた、
自分だけの小さな光を
見つけようとしていたのだろうか。

今さらながら、
そんなことに気づくなんて。

歌とは不思議なものだ。
同じ歌を聴いていても、
人生のどの場所に立っているかによって、
心に届くものが違ってくる。

やがて、万国橋。
私は橋の真ん中で足を止めた。
目の前の群青は、
星たちの光を溶かし込むように、
少しずつ淡い白へと変わっていた。

地平線のあたりには、
ほのかなゴールドの光。
その上には、
まだ夜の名残が漂っている。
まるで遠い過去を旅してきた
今の私の心模様を、
群青鏡が映し出しているようだった。

そのとき。
ふうっ。
真正面から、
風が吹き抜けていった。

あっ、風さん。

ほんの一瞬。

ずっと逢いたいと思っているあなたと、
すれ違ったような気がした。

風の中に、
どこか懐かしい温もりを感じる。

ねえ、風さん。
今朝はずいぶん遠くまで、
心を旅させてもらったわね。

そして万国橋を渡り切ったとき、
ふと我に返った。

ああ。15分の魔法が解けたんだ。

星のブランコから、
そっと地上へ降りてきた私。

ようやく、
今、この瞬間の自分へ戻ってきた。

けれど胸の奥には、
まだ小さな光が残っている。
遠い昔、
一本の数直線の向こうに見つけた光。
それが今朝、
三つの星の輝きと重なった。

そして私は、
もうひとつのことを考え始めていた。
数学を愛し、
言葉を愛し、
どちらの世界にも心を寄せてきた私。

そんな私は、
いったいどこを歩いてきたのだろう。

その答えは、
まだ夜の名残を抱く空の向こうで、
静かに私を待っているような気がした。


【朝の一首】

星三つ
結べばひらく
記憶の戸
数の小径に
光さし込む

— Morimura